GW明けは仕事に明け暮れる怒涛の日々になってしまって、やっとしずかな日常が手元に戻ってきた、本日。待っていましたよ、という感じです。。
昨日、野口整体の個人指導を受けて、からだの芯というか、こころの奥というかが、ほっとしたというか。
それと、この対談記事を今朝たまたま目にしたことも大きかったです。
トーベ・ヤンソンさんの伝記を訳した森下圭子さんと、重松清さんの対談。http://www.1101.com/tove_jansson/
いろいろ、うなづきうなづきした部分ありました。そのうちのひとつ↓
森下 ちょっと天気が悪くても心が弾んでたら、
わたしは多分、街路樹の中の緑を探して、
それを語っていたと思う。
ただ、トーベ・ヤンソンにはそれがないというのが、
ずっと感覚としてあったんですよ。
彼女が書く森は、わたしにもその森全部が見えてきて、
森が生きているのが感じられる。
自然は、自分の気持ちを託したりとか、
自分が何か利用するためのではないんですよね。
極端な自然の中にいるとそれがわかる。
自然があまりにも圧倒的過ぎて。
重松 ムーミンの物語って、洪水から始まり、
彗星は来るわの、いわゆるカタストロフですよね。
花鳥風月とかじゃない。
心理や情感を託せる相手としての自然ではなくて、
それは圧倒的なものとしてある。
森下 そうです。それにみんな笑っちゃうぐらいに
巻き込まれていって。
重松 そうそうそう。
ぼくはムーミンを最初のアニメで知った世代だから、
スノークのお嬢さんはあくまでもノンノンなんですよ。
ぼくにとってはね。
色もピンクなんだよ、彼女は(笑)。
毎週日曜日に放映されたアニメでは、
「毎度おなじみムーミン谷で事件が!」、
そういう世界観になるわけ。
ところが、原作には、みんな、
あまりいないんだよね、ムーミン谷に。
森下 そうなんですよ!
重松 けっこう島に行ったり、
最後にはまったくいなくなってるんだもん、本人たち。
『ムーミン谷の十一月』なんて。
森下 本人たちがいないんです(笑)。
重松 最初のアニメ世代には
牧歌的なムーミンと愉快な仲間たち、なんだけど、
原作のほうを見るとね、自然は激しいわ、
それに翻弄されて、
生きるものたちが小さな存在であることや、
あるいはお父さんもお母さんも
精神のバランスを崩しちゃったりと、
すごく不安定だというのを実感するんだよね。
森下 で、それに驚くほど、
みんなが抗(あらが)わない。
原作のムーミンはほんとに読み応えがあるし、原作のムーミンワールドはほんとに多様な存在がお互いを許し合って(ときに呆れあって)、そこにいて、わたしにとって、やさしい世界です。
どの存在も、それぞれのでこぼこさがありながら、そこにいる。晴れの日も雨の日もあって。
* * *
元気が少し出てきて、久々にお菓子をやきました。キャンプでやりたいな、と思っていた、甘夏の皮をカップにして焼くマフィン。
中身はてきとうに、大豆粉と小麦粉とマヤナッツとお塩、お砂糖、レーズン、甘夏の実。オーブンで焼いてみた。
食べるとき、カップの皮からきれいにはずれるので、このカラカラに焼かれてパリッとなった甘夏皮カップは、今度はお皿などの役割もできそう。
キャンプではだいぶん重宝するんじゃないかな。。。
* * *
桜の剪定枝から削ったジャムすくいも、今日完成。瓶の底にぴったりフィットする形のものが欲しかったので、つくってみた。
先端の形はジャム瓶によって決まったけれど、他は手の中でなんとなく決まっていきました。木目の流れ、節のおかげさまももちろん。。
どんなものになるかわからないまま削るのが、やっぱり楽しい。
わたしの場合、今のあるがままを、肯定すると、それがどんなにひしゃげてても、どんなにやばくても、一瞬ほっと安心感がくる。。すべてあるがままでいいんだなって思うとき。
この安心な場所から、動き出すってことをおぼえたいな。。。