2006年12月26日

戦車が華車になった。。。

6日前、タロットの「7・戦車」を描きに行ってきました。「7・戦車」について書かれた文章を遠藤さんと一緒に読んだあと、白い紙に向かって、じーっと紙の奥を見ていたら、とても小さい小さい、豆粒みたいなチャリオットが、はるか向こうからこちらへ走ってくるのが見えました。

はるか向こうというのは、なにか「はざま」のようなところでした。

それで、その「はざま感」を出したくて、世と世の切れ目のようなものを描こうとしているうちに、今回も、「6・恋人」のときの構図のように、画面の上からたれさがる半円と、画面の下からもりあがる半円、という構図が現れました。

でも、2つの半円よりも、その半円と半円の「はざま」に、気持ちを集めて描いていました。その「はざま」の奥行きを感じながら、色をたくさん塗り重ねていきました。

すると、ある時点で、急に、上の半円がお月さまであることがわかりました。クローズアップされて、クレーターなんかもはっきり見える、なまなましい天体としての「月」が見えました。それで、かすかに銀鼠色に色づけしました。

すると、中央のチャリオットは、「戦車」というよりは、月から、かぐや姫のお迎えにきた華車(御所車)のようでした。

チャリオットは、実際に描こうとすると、豆粒のように小さく描くことができず、少し大きくなってしまいました。桃色と薄緑色の2頭の動物が金色の車を引いて駆けていて、薄黄緑色の天蓋の布が風になびいています。

今までタロットの「7・戦車」に対して持っていたイメージが、自分の中でシフトしました。確かに目的や意志を持って駆けているんだけれど、それは、個人的なものではなくて、月から託されたものみたい。しかも目的は戦うことよりかは、なにかを迎えに行くとか、送り届けるとか、そんなことらしい、ということ。

本来のタロットの「7」の意味だとされているものからは、ずいぶんかけ離れたのかもしれないけれど(それに絵そのものは、つたなくて、見えたものを描ききれなかったけれど)、自分にとって、なにかがしっくりきたってことを、大事にしたいな、と今は思っています。

posted by な at 12:06| Comment(0) | TrackBack(0) |

2006年11月30日

垂直性と水平性

垂直性(verticality)をキーワードにしている、アレクサンダー・テクニックの先生と、先週結構密にワークしました。質問をたくさんして、実験をたくさんして過ごしました。未知との遭遇でした。

そのあと、ひさしぶりに絵を描きに行って、タロットの6・恋人を描きました。3人のヒトが、地面に立っていて、背後に太陽、という古典タロットの絵柄を踏まえた構図で描いてみたところ、紙を横置きにしていたために、古典タロットのように太陽を丸く描けず、半円の太陽と半円の大地が、どちらも同じ大きさで、画面中央で出会っている図になりました。

描きながら、「紙を縦置きにしていたら、太陽をもっと丸く描けたのになー」とちょっと思いました。でも、遠藤さんによると、横向きに紙を置いたことは、絵を描き始める以前のおおもとのところでの、なんらかの無意識の反映だそうで。縦の配置は上下の意識、横の配置は水平の意識、と考えられるとのこと。それでいくと今のわたしは、水平の意識に気持ちが向いている、ということになるのでした。

そう言われると、確かに。わたしは、アレクサンダーで「垂直性」をかんがえるとき、線が細いものを想像しやすいようでした。細い線が1本上空へのぼるような。一方、「水平性」をかんがえるときは、線にはならず、たっぷりした、輪郭のないものが、全方向へ水平に拡散するようなイメージになって、その中で上下への動きも解放されるような気が。

絵を見ていた遠藤さんは、絵の中の半円の太陽と半円の地面のちょうど間に人物たちがいることから、「天・地・人」についてもお話してくださって、人というのは天と地をつなぐものでもありますしね、とおっしゃいました。

確かに、ここまで7枚描いてきたなかで、今回やっと、具体的にヒトの姿形をしたものをちゃんと登場させることができたので、ヒトというものに関心が向かっているのもありそうでした。

そうしてさらに、しばらくあとで、道を歩きながら、天と地をいちばん上下でつないでいるのは、木じゃないかなあ、と思い立ちました。人間は上下をつなぎつつ水平移動しちゃうけれど、木はとっても上下オンリー。それでいくと、犬とかはわりあい水平オンリーに見えるな、と思いました。

なにがどうつながるのかはっきりしませんが、そんなこんなで、アレクサンダーも、ヒトを対象にしたワークなら、垂直と水平が同居する意識でもかまわないのだろうな、と思いました。水平意識の強すぎる場合は垂直を思い出し、垂直意識の強すぎる場合は水平を思い出す、というように、どちらも「偏り」と「やりすぎ」を緩和するための相対的なコンセプトとして使っちゃっていいのかも。。。一人ひとりの傾向や状況に応じて、使い分け可なのかもなー、と思うに至りました。

posted by な at 23:32| Comment(2) | TrackBack(0) |

2006年10月31日

「5」の絵

タロットの「5・法王」を描きにいってきました。
今回は事前になにもビジョンも降ってこず、なにかと気ぜわしいまま、なんだか呼吸も速くてあっぷあっぷしているような状態で、「こんなんで絵なんて描けるのかな」と思いつつ出向きました。

うそはつかずに、ありのまま、今の自分を描けばいいです、と言われて、なんだかドロドロしたエネルギーが炸裂するかと思ったのに、描いていると思いのほかサンサンと明るい感じに。太陽のような明るくてむこうみずなエネルギーが、ぶわっと、放射しつつ、周囲のヒトを取り込みつつ、浮世のうえに浮かんでるような絵になりました。

占星術でいうと、わたしはアセンダントがしし座なのですが、そのアセンダントの度数を、現在の土星が一ヵ月半前に越えたばかり。アセンダントは「自分自身をこの世に割り込ませていくエネルギー」をあらわすそうで、しし座=5ハウス、そして、しし座の支配星は太陽。五角形の膜に包まれた太陽が「着床」したような、太陽エネルギーが物質界にどぶんと入った直後のような構図になった今回の「5・法王」の絵は、きしくも、わたしのアセンダントの状況をわらわす図だったようです。

それにしても、どぶんと入ったその物質界というのが、まだわたしにとっては相当「未知」らしい、未知ゆえに手探りしているらしいです。これは絵のリーディングをしてくださった遠藤さんのフィードバック。

後でじーーーっと見ていたら、「アフリカの草原」を描いたつもりの場所(失敗してぜんぜん草原に見えず、あきらめて放置した場所)が、魔物の顔のように見えてきました。すごい怪しげな笑いを浮かべているような。。。構図のうえでは、この場所は、「口」とか「鼻」とかを意味するそうなので、この魔物はいわば「外界の取り込み口」として描かれていることになります。この世とのかかわりでは、まだよくわからないへんてこな状況が展開しているようです。

そんな課題にいま体当たりしているのも「若さだよね〜」と遠藤さん。自分自身を青くさく感じるときが確かにあるので、なにも言えませんでした。

posted by な at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) |