2007年12月19日

60通りの可能性

昨日、松浦理英子さんの小説『犬身』について、自分が感覚していることがどんなに世間の一般常識で理解されにくいものであっても、それを自分の中では、まったく疑ったり打ち消したりすることのない主人公に、「健全な明るさ」を感じると書きましたが。

その後少しして、作者はひょっとして意図的に、そういう天然で健全な明るさを主人公に持たせたのかも、と思い至りました。

なにかの状況について内で感じていることを、外から「あなたはこれこれこういうふうに感じているのだ」と別のストーリーで読み取られて、書き換えられていく。いつのまにか、そうなのだと「思わされて」いる。。。そういう体験に対して、この本は、頑固に「ノー」を言っているような気がしてきました。

* * *

松田聖子がむかーし歌っていた曲の中に「キッスはいやと言っても反対の意味よ〜」という詞がありました。子供として、これを聞いたわたしは、へえーと思ったものでした。

でも大人になってから、いやと言ってるのに「ほんとはいやじゃないんでしょ」と受け取られる場面を体験したりして、そのときには「この人は松田聖子のあのうたを聴いて育ったのかしら」と思ったり。。。

もちろん、実際「いやと言っても反対の意味」なときだって、多々あるわけで。。ひとつの状況や言動には、はたからみれば、いろんな説明があてはまる。。。

こないだ聞いたのだけれど、『知恵の三つ編み』 (ポーラ・アンダーウッド著・星川淳訳)という本の中に、こんな一説があるそうです↓

形をとったすべての現象について、
その現象をきちんと説明できる説明を少なくとも六通り考え出すこと。
説明は六十通りあるかもしれないが、
もし六通りでも考えだすことができれば、
宇宙の複雑さと知覚の多様性に気がつくだろう。
そうすれば、最初に思いついたもっともらしい説明を「真理」に祭り上げて、
それにしがみつくことを防げるにちがいない。

自分が「真理の押し当て」という暴力をしているかもしれないことを、視野にいれておきたい、わたし自身はなにを感じているのかを、もっとちゃんと大事にしたい、そんなふうに思う今日です。

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2007年12月18日

小鳥と本とブランデー入りココア

月桂樹にたわむれるメジロを見ていた翌朝、夢の中に、小鳥が5〜6羽出てきました。みんなカラフルで、インコだったと思う。どうやらわたしがみんなお世話をするようでした。。。

松浦理英子さんの新刊「犬身」を読みました。よかったよー、とパートナーに言うと「どのへんが?」と聞かれて、そのとき口を突いてでた返事は「問いかけが」。

Kenshinそんなにたくさん小説を読むほうではないのだけれど、確かに、ほんとうに好きな小説って、読んだ後も、いろいろな問いかけが意識の水面に波立つような小説かもなー。

このお話は、犬が大好きで、自分は「種同一性障害」かも、犬になれたらいいのに、と感じている主人公が、本当に犬になる、という展開をします。

「種同一性障害かも」という気持ち、わたしも持ったことがあるけれど(犬ではないけど)。。。松浦さんのお話に出てくる主人公は、自分が生理的に「感覚していることがら」に対して、ものすごく素直に生きていて、「これは間違っているのでは、ヘンなのでは」と疑ったり、思い悩んだり、否定したり、なんとか変えようとしたり、とかそういうすったもんだがぜんぜんないのが特徴的。。。

そこのとこに、なんだかものすごい明るい健全さを感じます。

そういう主人公のあり方も含め、いろいろな問いかけが、水面にぷかぷかしている感じが続いていて。そのこと自体、気に入っています。

もひとつ、ここ数日のお気に入りは、ブランデー入りココア。普通にココアをつくるときに、途中で小さじ1杯ほどのブランデーを入れる。どうかするほどおいしくなります! 

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2007年05月10日

ことば

コトの葉っぱ
どこから摘んできた?

深くあおく、透きとおった、あの、空の地層

そこから採ってきた
ほんとは、そうでした

小鳥からむしり取って、羽だけあげる

そんなこと、してないつもりでした

でもそのくらい、残酷だった

わたしのコトバたち

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