2010年11月07日

日が沈んだあとの時間は

Dscf0012 ここ2、3日、エネルギー切れを起こしてて、生きていてもしょうがないな、と、つい思ってしまった今日でした。

なにもする気がおきず、とりあえず、夕日がきれいそうだったので、見にでかけました。

風もなく、海は湖みたいに静かでした。

砂浜でキャッチボールする親子連れ、隣同士でじっと腰掛けているカップル。。大勢の人が、思い思いに過ごしていました。

Img_0239 日が沈んだ後、水面や空がうすい桃色のようなラベンダー色のような色になるのがきれいでした。

富士山はうすいブルーのシルエットになってた。



暗くなるまで、喫茶店で本を読みました(読んだことない本が本棚に入ってたので、なにげなくそれをもって出たら、まえがきの第一行目に「首を吊ろうかなあ、と思っとる人、ちょっと待ってくれい」と書いてあった)。それから、暗がりの中、江ノ島神社にお参りに行きました。

Dscf0024_2帰りがけに、キャンドルライトがいっぱいともされた、江ノ島の灯台下のお庭を歩いてきました。

キャンドルが消えると、さっとそこへ行って、新しいのを入れて灯す係りの人がいました。

たのしそうな仕事だな、と思いました。わたしもそうやって、Dscf0027炎を見守って、消えたら、また灯す、ということだけ、えんえんとやっていたいような気持ちでした。

* * *

帰宅してから、にゃみちゃんの写真の整理をしていたら。。。気づきました。

今暮らしているこの家を、初めて見に来たのが、去年の今日だったこと。

そのとき、庭のみかんの木に実がなっていたのが、うれしかったこと(今年はぜんぜんなっていないや。。夏場に水遣りしなかったからだ、きっと。。)

数日後、商店街をさんざん歩いてまわって、今住んでる町にあるのと同じ系列のペットショップがあること(猫シッターさんを頼める)、自然食品屋さんがあること、居心地のいいカフェがあること、地場野菜を買える場所があること、とうふやさんがあること、銀行・郵便局が近いことをチェックして、「ここで暮らせそうだ」と思ったこと。。。

夢をいっぱいに膨らませて、ヴィジョンをかけて、越してきたつもりだったけれど。
にゃみちゃんは、誰よりも早くこの家になじんだように見えていたけれど。
(結局越してからわたしは一度も外泊をせず、猫シッターさんのお世話にはならなかった)

今は、このままここで暮らしてくのがいいのかどうか、わからなくなってる。

posted by な at 01:02| Comment(0) | 未分類

2009年01月31日

住まい方

このあいだ、「天然住宅」にお住まいの人のお部屋を見せてもらってきました。

Photo_2

Photo_3Photo_4たたずまいはモダンなマンション。でも外壁が焼き杉の板だったり、共有部分に災害時などに水を確保するための、昔ながらのポンプがあったり、味がありました。

その方のお部屋は、南側に窓とベランダがあって、玄関を出てすぐ目の前には畑がありました。トイレはコンポストトイレで、そこでできた堆肥を畑に入れて使っているそうです。

暖房は薪ストーブ、冷房はなし。見せていただいた日はよく晴れていたので、ストーブもつけていなかったけれど、南の窓の足元にもうけた、床に素焼きタイルのようなものを敷いた一角が、太陽光を受けてよく蓄熱していて、あたたかかった。

お邪魔したときはしまってあったんだけれど、「反射板」というものもお使いになっているとかで、見せていただきました。半畳サイズくらいのベニヤ板に銀色のシートを貼っただけのもの。

これを陽が射している時間帯に窓辺に出しておいて、日差しをお部屋の天井に反射させて、そこに蓄熱するそうです(天井も壁も、クロス張りなどのないコンクリートなので、蓄熱できるとのこと)。

コンパクトでオープンな間取りなので、あたたかさもよく行き渡るのかな、と思いました。

あらゆる面で気持ちのいいお部屋で、300年持たせることを考えての、いろんなことの優先順位の付け方も、ほんとにすばらしいなあと感じ入ったんだけれど、しかしやっぱりこんな上等なお部屋には、とうてい予算的に手が届かない。。。そう思うと少しへこみました。

もっといろんな面で最低限の質素さでいいので、もう少し予算に合うお部屋があればなあ。。

でも、住まい方って工夫次第だなあ、ということが実感できたのは、とてもよかった。

* * *

蓄熱することの効果を体感できたので、うちでも真似してみることにしました。

70年代に建てられたわが家も、壁と天井はコンクリートそのまま。コンクリートは、蓄熱もできるけど、冷たさもためこむので、寒いときは壁からの冷気がひや〜となるんです。。。

Photoそこで。毎日夜寝るときに、畳と敷布団の間に敷いている、銀色のサバイバルシート(数百円のもので、超薄くて常用するようにつくられてはいないんだけれど、常用しているのです)。

これを、お布団をしまったあと、日中は窓辺に出しておくことにしました。

Photo_5太陽が当たると、かなり、まぶしいくらいに反射します。

見てくれは悪いけれど、昼間出かけるとき、こうして広げておくと、外出中に天井に蓄熱してくれて、

日が沈んでからもしばらくは、天井と壁からの冷気がやわらぐみたいす。心持ち、あたたかな感じがします。

窓の足元の床を蓄熱エリアにすることも検討したいな。熱を蓄える素材だから、レンガとかがいいのだろうけれど、厚みがないとだめなのかどうなのか、そこらへんを調べてみたいです。

今は、窓の足元にウィンドーラジエーターという細身のヒーターを置いて、窓からの冷気をやわらげているんだけれど、蓄熱エリアがうまく機能すれば、ウィンドーラジエーターのかわりになるかも!

posted by な at 14:29| Comment(0) | 未分類

2008年09月24日

コミュニケート

ここ数日の、はっとしたこと。

ワークショップで初めて会う参加者に対して、自己紹介をした(き)先生のこと。となりで通訳として彼女の言葉を訳していた私は、今話されていることはなんについてだったのか、一瞬わかならくなるような、混乱状態を体験しました。

というのも、おそらく、こんなふうに自己紹介をする人は、今までの通訳人生で初めてだったからだと思われます。

気負いのようなものが、微塵もない、自己紹介でした。内容的にはちゃんと自分のことを紹介しているのだけれど、伝え方としては、「このあいだ、あそこの公園のどんぐりの木の下で、あおいどんぐりを見つけたんですね、それで。。。」とかなんとか言ってるような、そういう感じでした。

つまり、多くの人が自分について話すときに特有の、余計なテンションが一切不在だったようです。

彼女にとっては、自分自身と、公園のどんぐりとが、おそらく話のトピックとしては等価なんだろうな、と思いました。大事なのは、ここにいる人たちとコミュニケートすることで。

こういう、ポジティブな負荷も、ネガティブな負荷もかかっていない言葉の発し方に、最近、とっても興味があります。

ふだんのわたしのコミュニケーションスタイルは、情感にまみれすぎているように感じられる。気持ちを伝えたくて伝えたくて、実際の気持ちのサイズを上回る、ちょっとおおげさな表現になってしまったり、逆になんにも言えなくなったり。。

もっとクリーンなコミュニケーションをしたいと思うようになりました。

* * *

あと、コミュニケーションの一番根っこのところのこと。

言葉を交わしあう以前の、「一緒にいる」というところについて、今回、(き)先生からヒントをもらって、気づいたことがありました。

わたしは言葉を交わす以前に、「一緒にいる」ことを拒否していた感があります。そこを拒否しつつ、でも言葉だけはやりとりしようとして、相手との間に言葉でほそーい橋をかけようとしていました。相反することをやろうとしていて、なおさら労力使ってた。。。

というのも、自分が「ここに、この人たちと一緒にいていいのかどうか」が、わからなかったからだと思います。

(き)先生から教わったのは、自分がここにいる人たちと一緒にいるあいだ、ここにいる人たちに「私と一緒にいませんか」とお誘いする、というスタンス。いてもいいと思ってもらえるのかどうかは、わからない、でも、今実際に一緒にいるこのひとときは一緒にいませんか、とお誘いするわけです。

誘いに応えてくれるかどうかは相手次第です。お願いしたり命令したりするわけではなくて、お誘いなので、あくまでチョイスは相手にあります。だからこそ、こちらとしては、誘ってみるだけなら別にかわまない、ということなのですね。

で、たとえばパーティーに誰かをお誘いしても、誘った人が来ない場合、たいていは、なにか別の用事があるとか、そういう「私」とは直接関係のないことが理由だったりします。この場合もそれと同じだからね、と言われました。

* * *

後で、この「お誘いする」というのは、人じゃない存在にも通用しますか、と聞いてみたら、イエスと言われました。

それで今日、ずーっと長いこと道を歩いていて、道のまわりの木々や標識やカラスに、私は今あなたがたと一緒にいるので、あなたがたも私と一緒にいませんか、とお誘いしてみていました。

こうやって言葉にするとへんてこだけれど。。

でも、この実験でわかったのは、ふだんのわたしは、まわりの世界を拒否しながらそこにいたようだな、ということでした。拒否して、まわりから切り離された「自分」というものの中に閉じこまっている。もしくは、まわりを拒否しない場合は、まわりに圧倒されて、自分がなくなってしまうかのようになるか。そのどちらか、みたいな感じでした。

この「お誘い」をすると、拒否したり圧倒されたりするかわりに、まるごと事実を認められるような感じです。いつもよりちゃんと、無理なく、今いる場所にいる、という感覚がやってきました。自分もあって、まわりもあって。

一緒にいる。。

posted by な at 19:04| Comment(0) | 未分類