2019年11月20日

たっぷりの時間

昨日はひさしぶりに相方も休みの日で、わたしもその前日に翻訳仕事は片づけたので、まっさらに自由な日で、お天気もぽかぽかの小春日和の予報だったので、寝坊したけどいそいで身支度して、午前中に自転車にのって江の島まで走りました。

江の島の橋の上にある駐輪場に自転車をとめて、江ノ電の駅まで歩いて、今度は江ノ電にのって鎌倉に出て、大好きなカフェ・ヴィヴモン・ディモンシュへ行きました。ほんとーうに久しぶりに。

IMG_0537.JPGディモンシュでおいしいムケッカをランチにいただいて、食後にマキアートを飲んで、おいしさにじーんとして。そのあと小町通りを少し歩いて、その先のはずれのほうにあるフィンランドパンのパン屋さんを覗いてクリスマスパンを買って。

人ごみを避けて、細い路地をてきとうに歩いて駅のほうへ戻る途中、空き地でハクセキレイに会いました。尾羽をピンコピンコ上下させるのがかわいいので、あいさつして、こちらへおいでといったら数歩近づいてきた。少し来たらまたくるりっと背を向けてむこうへ走っていっちゃったけど、お互いの存在を認め合った瞬間が確かにあったのがうれしかった。

そのあと角を曲がると細い用水路に出て、見下ろすとしらさぎが水面に浮く虫?を食べていた。細い用水路には大きすぎるように見えるシラサギのからだのまっしろさに見とれ。。。透明な水に透けてみえていたレモンイエローの足先に見とれ。。。

IMG_0557.JPGと、用水路とは逆側の道の塀に、ひょっこり茶トラの子猫がとびあがってきて、着地すると同時にわたしたちを見つけておののいていた。。。私たちもびっくりしたけど、そのまま動かず、子猫には軽くあいさつだけしてまたシラサギを見下ろしてたら、今にもどこかへ逃げなくちゃ!と思ってたらしかった子猫はそのうち落ち着きを取り戻して、しばらくじっとしたあと、今度はわれわれの視線の先を追うように、ポンっと塀から降りてきて用水路の中を、へっぴり腰で見つめ出しました。自分の体より大きいシラサギを食い入るように見つめる子猫。。

へっぴり腰と、片方の後ろ脚が上がったまんまなのが、なかなかかわいかったなー。そんなでかなりしばらく、2人と1匹の視線をずっと感じてたシラサギは、やおらふいっと翼を広げて高く空中に舞い上がるとさーっと橋の向こう側の用水路へ移動していきました。

違う種の生き物と、お互いの存在感を感じながら一緒にそこにいるっていうのは、楽しいな。そういえば、江の島の橋のところで自転車を止めたとき、「ぴーひょろろ」とトンビの歌が、なんだかいつもと違う場所から聞こえて不思議に思ってたら(いつもは空中から降ってくるようなのが、どうも地に足を着いた場所から聞こえた気がしてたら)、橋の上に等間隔に立っている高ーい街灯のランプ部分にトンビが座ってて、そこから唄っていた。

ランプは列になって並んでいて、合計6羽のトンビが、6本の街灯の上に各1羽ずつ(!)座って、唄いあっていました。こちらには背中を向けて座っているのに、わたしが相方に「トンビ、どこでないてるのかと思ったらあそこだよ、空を飛びながらなくんでなくて、座ってないてる!」と言ったら最寄のランプのトンビがくるりと振り向き、、目が合った。自分らのことを言ってると、すぐわかるんですね、背を向けてても、あんなに丈の高いランプの上にいても。。。さすがです。

しばらくぶりにゆったり楽しい休日で、そこまで特別なことをしたわけなじゃいけど、楽しかった。。

思えば、ここ数カ月、いや数年か?、いつも翻訳仕事があって常に〆切を抱えていて(自分の処理スピードが遅いせいももちろんあるんだけど)、年末年始まで仕事を抱えながら過ごすふうで、こんなにゆったりした気持ちで休みを過ごすことがぐんと減っていた気がします。

以前は、ときどきこういう休みの過ごし方をできてたし、たっぷりした時間の中で梅仕事とか、今の季節なら庭の植物でリースつくったりしていたんだったっけ。けどそれがなんだか、ひどく前のことのように感じられてる。

ここしばらくはいつも時間が十分になくて、困ってたり、もどかしかったりしてたので、たっぷりの時間が自分の手の中に戻ってきた感覚が、ほんとうにじんわり、うれしいです。仕事が減るとお金は減るけど。。。

昨日夕方には、カフェのテーブルに向かって、今度うちに来てグリーンウッドワークのスプーンづくりを一緒にやりたいと言ってくれてるともだちを迎える準備を考え始めたら、体中がじわんとするやつが久々に来た(うれしいときに出る反応で、自分では「うれしいホルモンが出ている」と前から呼んでる状態)。ああ、これ、自分、うれしいんだなあ、とわかりました。

この冬からグリーンウッドワーク分かち合い活動を始めようと思ってるのだけど、人にものを伝えるとかやり方を教えるとかについてあまりにも自信がないので、彼女との木削り会はその練習というか予行演習というかです。うまくいくか全然わからないけど、たのしみ。



2018年06月13日

無言の行動で

ねこの(ち)ちゃんをお見送りしたときに持参したダウンのひざ掛けとウールのストールを、実家に忘れてきた!と思い出し、送ってもらうようにお願いしてたのが、さきほど届いて、包みを開けたら、父からの「岩合光昭のねこ」のハンカチが入っていました。

わたしはねこグッズが特に好きなわけでなくて(実在する、家族だったり知り合いだったりするねこが好きなだけで)、なのでちょっと微妙な気持ちでハンカチを広げてみたら、そこに写っていた2匹のねこのうち1匹が、亡きにゃみちゃんによく似ていて、なんかうれしかった。。。

うれしい、と感じたのが意外でした。

にゃみちゃんが、今回のことで気がふさいでる自分に、向こう側から気を送ってくれたサインのような気もした。

昨日の晩も気がふさいで、なぐり書きをしながら眠気に襲われて、そのまま寝たのでした。こんなこと↓を書いてたから、にゃみちゃんまで、わかりやすくサインを送ってくれたのかも、なぞと思う。まだ一緒にいるよ、いなくなっていないよ、とでもいうように? ねこのみんなはいつも、行動で示してくれるもんなあ。。。現実でも、夢の次元でも。

* * *

久しぶりに自転車で商店街まで走った午後

この世界にもう(ち)ちゃんがいないことがしみしみと感じられて

さみしさが、やってきた

ねこ族を家族に迎えてから34年

とうとう最後のねこ族の家族が旅立って

うちの家族の中に、ねこがいなくなってしまった

資質も姿も三者三様だったねこのみんなは

それぞれ18年、24年、23年、一緒にいてくれて

どんなにかお世話になってきたことか

それはもう、みんなに感謝しかありません

この先、ねこのみんななしでやっていけるのか、自信がないな。。。

でもいつまでも頼ってばかりいてはいけない、とも思う

生き物として、自分も、成長しないといけないよ、と

でもほんとうに、もう無理だよ、もう限界、という気分もあって

いつもなら、なぐさめになるはずの音楽さえも、受け付けず

仕事も山積みなのに、やる気も出ず

今はただ、眠っていたいような気分で

だめにんげんだなあ。。。

ここから見ると、人の世は、はなはだ浅はかに見えて

みんな一生懸命なんだなあってわかるけど

でもわけがわからない

わけなんてないのか。。。

ねこのみんなは

紐の一端を握ってくれていたかのようでした

迷子にならないように

この世がわけのわかる場になるように

ほかにはなんにもいらない、となんどもおもった

外の世界の全部

正直になれば、もともこもないくらい

ただただ頼りにしていたんだな

近くにいるときも、遠くでも

いつでも必ず、こたえてくれてたね

ありがとう

***

平常の意識の(ち)ちゃんと最期に会ったのは、ひと月前くらいに実家に寄ったときで、その数日前にごはんをあまり食べなくなっていると父から聞いていたので、だいじょうぶ?と聞きにいきました。本人は大丈夫そうにしていた。

で、大丈夫そうだけど、もしなにかあって、ケアが必要になったりしたら、うちに引き取りたいと思ってたので(兄ファミリーがずっとお世話をしてきてくれてたけれど、それ以上のケアが必要になった場合、義姉はねこアレルギーがあるからきびしいと思って)、(ち)ちゃんにそのとき、「大好きだからね、いつでもうちに来ていいからね」と声をかけたら、(ち)ちゃんはゴロゴロ喉をならして、わたしの手の甲と指をぺろぺろ舐めてくれました。

(ち)ちゃんに急な症状が現れたのは、金曜夜で(でもたぶん金曜朝から金曜夜まで同じ場所にいたらしいので、おそらく発症は木曜深夜から明け方かと)、木曜は母の命日でした。

その木曜日に、母が亡くなってからも実家で兄ファミリーと同居を続けていた父が、生活のメインの拠点を別宅のほうに移したい、それに伴って(ち)ちゃんを別宅に連れていきたい、と兄ファミリーにメールで伝えていたことを後で聞きました。

姪っ子や甥っ子は(ち)ちゃんをかわいがっていて、兄ファミリーとしては、(ち)ちゃんを別宅に連れて行くのだけは保留にしてほしいと返事をしたそうでした。

そんな中で、(ち)ちゃんの両脚の麻痺が起きました。血栓症の突然の症状で。

(ち)ちゃんは、父も、兄ファミリーも、どちらも大切に思っていたからこそ、どちらの側に行くわけにもいかない、と思ったんじゃないだろか。。。そう思えて仕方ありません。脚が動かなくなる、ということにもそれが端的に表れていたように思います。

亡くなる最期の晩、深夜に乱れた呼吸で力をふりしぼって、麻痺した後両脚をひきずりながらずり這いしては倒れ、しばらく休んでからまた這っては倒れしながら、彼女が向かっていこうとしていたのは、まず、父の部屋でした(父は別宅にいて不在でした)。父の部屋への引き戸の敷居をまたぐあたりまで行って、こんどは逆向きになって、反対側にある、階段へ向かうドアの方向へ(階段の上は兄ファミリーのみんなが眠っていた2階フロア)、同じように這っては倒れを繰り返しながら、向かっていました。

暗く涼しい所に行きたいという欲求だけで、ずり這いを繰り返していたのだったら、父の部屋の方向にたまたま向かっていただったら、そのまま部屋に入っていけばよいことでした。敷居はほぼバリアフリーだったし、フローリングは同じようにひんやりしていたはず。。

身動きがあんなに大変なときに、わざわざ逆方向へ向きを変えて、階段の方へとずり這いしていったのが、偶然だったとは思えずにいます。体の逆の側面を下向きにしたい、という欲求で、逆向きになった、ということも考えられるけど、それならその場で左右の向きをかえればよいことで、後脚と頭を入れ替える形で逆向きになるほうが大変です。(実際、階段へ向かって這っていく長い過程の中で、左右に向きを変えてはいました。となりで寝ていたわたしのほうを向いたり、壁のほうを向いたり。壁のほうを向いたときには、わたしは(ち)ちゃんの背中に愉気をしていました)。

最後は、階段へ向かう入口(開け放してありました)まであと少しのところで、こちら側を向いて、息絶えました。

ねこは死ぬときにはひとりになりがたる、と言われるけれど、それは違う、涼しい地面、涼しい場所を探しているだけで、旅立ちのときは家族と一緒にいるほうが安心する、と書いてある記事を、後になって読みました。(ち)ちゃんが、あんなに息苦しいなかでとった行動を振り返っても、わたしたち家族に最後まで、心を開いてくれていたような、気がしています。

まあ、ほんとのところは、本人のみぞ知るところだけれど。。わたしはやっぱり、ねこのみんなのやさしさの深さに、いつも驚かされて、いつも助けられてきて、ただありがとう、としか思えないです。

2016年02月21日

スツールづくり実験&削り馬プロジェクト(5)

20160216_193820 岐阜でのグリーンウッドワークの椅子づくりを終えて帰宅して数日後、おとなりさんが庭木の剪定をされていて、うちの伸び放題のセンダンも「ついでに切りましょうか?」と言ってくださり、どどーんと切ってくださいました。

2月になったらセンダンの剪定をしないと、と自分も手帳にずっと書いてたのですが、でも岐阜から帰った後は仕事がぱつぱつで動けずだったので、助かりました。

20160216_204951 それで、仕事がひと段落した翌日、大好きなセンダンの枝たちがフレッシュなうちに椅子づくりのおさらいもかねて、小さいスツールを作ってみようと思い立ちました。夕方から寝るまで、スツールのパーツ(貫と座枠)を削り。。。

その晩はおふとんに入ってからも一晩中、岐阜で体験したような筋肉痛をまた体験できて、うれしかった。。。痛かったけど。

スツールは、手持ちの道具でできる範囲のもの、になるので、岐阜20160216_215051で教わった椅子のようにはできないし、センダンの枝もそれほど径が大きいものが多くはないので、丸いままの枝も一部使ってみることにしました。丸いままの枝を使うと、強度が弱くなるなど問題はあるのだけど、今までセンダンの枝とつきあってきたここ数年を経て、丸いままのセンダン枝は乾くと結構しっかりするように思えたので、トライしてみることに。

センダンは成長がとっても速くて、剪定枝の年輪は2ミリ〜5ミリくらい。グリーンウッドワークを最初に教わったマイク・アボットさんは、使う材の年輪は「できるだけ2〜5ミリくらい」のものを狙うように、とおっしゃっていて、その基準においては、いい感じになってしまうのでした。ただセンダンは成長が速すぎてやばくないか?と思う。まあ、やってみて、調べてみるしかありません。。。

生木の枝を丸いまま使って家具作りをしているアリソン・オスピナさんのやり方と、生木を割って椅子づくりをしているマイクさんのやり方と、岐阜の森林アカデミーで教わったこととを、ごちゃまぜにして実験です☆

* * *

20160217_091735 20160216_215325 ひさしぶりに使ったマイ削り馬は、まだ改良途中のままだったので、ちょっと使いづらかったのでした。。なのでパーツを削り終わって、干物のように吊るして乾かしているあいだに、改良を試みました。

全体の「やわさ」をもう少し何とかすることが最大の課題。ボディがぐらぐらすることは、脚の長さや角度を調節することで、だいぶん大丈夫なレベルになりました。

20160220_094320_2 あとはボディがもうすこし細いと自分の脚の動きが楽になるなあ、と感じたので、ボディをもう少し削り落しました。のこぎりで、ここまで、というところに切り目を入れて、鉈で叩いて割り取ってから、銑でけずりあげ。

20160219_104219 フレームも、穴の高さと押さえの高さを両方、もうちょっと上げて、あと、フレームにペダルをかませました。穴あけは、鏡で角度をみながらがんばりましたが、やっぱり少しまがった。。。前よりはだいぶましになりましたが!

20160221_145547 ペダルは、森林アカデミーの久津輪さんとグリーンウッドワーク研究所の加藤さんがデザインされている削り馬「オリガミ・ホース」のアイデアを参考に。足のリーチが少なくて済むので、楽になります。以前、近所のガラス屋さんが閉店するときに、前を通りがかって、ごみになろうとしていた古い棚のパーツがあったので、おかみさんにもらってきたのだけど、そのときの板がペダルにぴったりでした。切ったりする必要なく、ピタッときた。

作業台に高さを出す「ライザー」の部分は、いままでは、「角」をつき刺してボディとつないでいただけで、ときどきぐらぐらしたので、これもボディの鼻先にちょうつがいで接続しました。取り外し可能なちょうつがいが、たまたま手元にあったので、つけてみた。安定感が大分増しました。

あとはライザーをもっと短く切るかどうかが迷いどころです。当初「膝乗せ型削り馬」としてつくった部分なので、今後も膝乗せ式で使えるようにしときたい気持ちもあったり。でも膝乗せ式は腰にしばりつけなきゃなので、一度作業を始めると、取り外しが面倒で。。やっぱりあまり使わないかなあ、とも思ったり。

とりあえず当面はこれで使ってみて、短くしたくなったときに、また考えようかと思います。短くした場合は、その上の作業台と、ちょうつがいで連結してもよさそうで(「オリガミ・ホース」の作業台のように)それはそれで、あこがれがあります。。。

20160221_150245 現状だとこう折り畳まるのだけど、ライザーを短くすれば、もっとコンパクトになるかも、とも思っています。

20160221_154421 ライザーをボディに固定するための「角」は、こんなに長い必要はまったくないのだけど、楽しいので長いまま使っていました。今回、「もしかしたら何かのときに使えるかも」といろいろなものをとってある引き出しを開けてみたら、前の家でつかっていたトイレットペーパーホルダー(今の家では使えない形だったのでしまいこまれていました)が発見されて。これってもしかして、と角に付けてみたら、ツールホルダーになりました。ひょっとして便利かな?鉛筆や定規、ナイフ、削り馬の作業台調節用ブロックなんかを、ほうりこんでみました。「角」はなぜか右に大きくまがっているので、それも、ツール入れを下げるにはちょうどよかったような?

こんなして手持ちのものや身の周りのもので、ああでもない、こうでもない、とやりながらグリーンウッドワークのものづくりや道具づくりをするのが、とっても楽しいです。「ムーミンパパ」状態、と自認しています(汗)。でもわたしにできるなら、普通の人にできることなので、人体実験といいますか、「体力なし、車なし、手先の器用さ今ひとつ」で、予算も最低限でも、そんなにおおがかりなものをつくるんでないなら、そこそこ楽しくグリーンウッドワークができることを、身を持って示せたら楽しいかな、と思っています。

しかし木工の素養もないまま、パッションだけでグリーンウッドワークにとび込んで、いまだにパッションだけでほそぼそと学びと実験を続けていて。。。あいかわらずノコギリもまっすぐ切れないし、穴をあけてもなぜかまがるし、これは自分の人生の縮図のようだ、と思います(汗)。どうもいつも「大丈夫かな」とそろりそろりとやっていて、思い切りが足りないというか、腹が座っていないというか。ここっと決めたら、あとは腹を据えて一気に最後まで穴を開けていく、とかそういうふうにやるほうが、うまくいくんだよなあ、という体験を何度かしています。グリーンウッドワークを通じて、すこしずつでも思い切りのよさ&おおらかさが身に付いたらうれしい。。

おおらかさの部分は、グリーンウッドワークは指し物細工みたいな正確さは要求されなくて、アバウトでも大丈夫、という部分があるためです。生木から繊維をなるべく断ちきらずに割って削ってパーツを作った構造物は、しなかやさがあって、多少の誤差にも対応できるみたいです。そういうところがすごくすきです。

バレエはぜんぜん好きじゃなかったけど、イサドラ・ダンカン・ダンスはあんなにも大好きだった、それと似ているなあ、と思うこともあります。バレエは振り付けという動きを体に押し当てる感じがあって、人工的に感じられていました。やりたいと思ったことはなかった。。イサドラ・ダンカンのダンスは、振りはあるのだけど、動きは中から出てくるようでないといけなかった。そして「体が違えば動きも違って当然」、「動きは自然界から学びなさい、葉っぱが揺れるようす、浜辺に寄せる波、風に乗る鳥などなどをよく観察して」「音楽が体に作用するのを感じてから動くこと」と教わって、ほんとうによろこびの中で音楽とひとつになる経験が(ほんの少しだけど)ありました。

普通の木工はやりたいと思えずにいるのだけど、グリーンウッドワークはこんなにも大好きなのも、グリーンウッドワークは、こちらが決めた形を材に押し当てるというよりも、実現したい形はありつつも、そのなかで自然の摂理にゆだねる部分が大きいからなのかなあと思います。そして身近な木とも一緒にできるところが大きい。。。剪定した後のセンダンとも、こうしてさまざまに一緒に過ごせることは、ほんとうにうれしいことです。

森とつながりたい、というのはもちろんあるのだけど、その一歩として、自分の部屋のすぐ外に生えている、このセンダンとつながる、というのが、自分にはしっくりきています。

ほんとうに楽しい緑の木工のことを教えてくれたともだちの(わ)ちん、知識や経験を分かち合ってくださってるグリーンウッドワーカーのみなさん、ありがとうございます :)