2016年06月16日

水の中の風

今夜はひさしぶりの、しずかな、ひとりの夜で、そとは雨。今日まで、ぎゅぎゅぎゅっと、いままでになくチャレンジなスケジュールで仕事がつまって、だいじょうぶかーと自分でも思うほどでした。でも、なんとか、ここまでこれた。。。よかった。

今朝は疲れていたのと、追われて逃げるときにうまく前に走れないという典型的な悪夢を見たのとで、少し家族にやつあたりしそうになったけど、そこまでひどい出方はしないですんで。。。がんばったし、つかれてるんだな、と気づけたのはよかったな。

濃密で大変だったけど、収穫やよろこびもいっぱいあった。海底の岩棚が少し動きだした、みたいな感覚もある。それはグッドニュースな感じもややする。。。

若かったころは、いつも、窓にかかっているカーテンをあけても形ばかりの窓枠があるだけで、枠の中はコンクリの壁がはまっているような、そういう感覚にとまどっていたっけ。「現実」に閉じ込められてしまっている感覚が常にあったというか。でもいつのまにかすっかりなじんで、「現実」のなかで楽しく過ごせるようになって、「大人になるってこういうことだったのかな」「大人になってラクになったなあ」と思うようになっていたので。。。このたびひさしぶりに、「現実」の向こうに世界があることを忘れてない人が訪ねてきて、「外はこんなですよ」と話を聞かせてくれたような、そんな日々でした。。。

いろんなことについて、考えが(思い込みが)動き出したなあと観察中。

ひさしぶりに、ほんものの未知と接点をちょっともっているようなふうだ。想定内の未知でない、ほんとうにどうなるかわからない未知。

そこの接点のとこから、ほそく、風が吹いてきてるような感じがある。

posted by な at 22:00| Comment(0) | 天体と自分

2015年08月02日

ラジオと天体と

20150726_120956 毎日暑くて、このところサラダばかし食べたい。最近のリピートメニューは、パンケーキのサラダのせです。マヤナッツを入れた甘くないパンケーキを焼いて、その上に手持ちの野菜を適当に盛る。粒マスタードとマヨネーズとメープルシロップを混ぜ合わせたソースをかけるのが、今年のマイブームです。お手軽でボリュームがあって、よいです。。

20150801_104518 さてはて。SONYのラジオが来ました。。!

おとといの深夜3時まで、7時間作業した分の仕事のデータが、なぜかフッと消え去り、昨日は切ない気持のままやり直しをして、なんとか約束した期日に間に合うようがんばっていたのだけど、そうこうしているときに、ラジオが届きました。

いろいろを終えた夜に、はじめてスイッチオンをしてみたら、思っていたよりクリアーな音が、小さなスピーカーから聞こえてきて、びっくり。

ラジオの番組表を持ってないので、適当にダイアルを回していくと、日本語、韓国語、英語、中国語、??語、さまざまな放送が聞こえてきた。灯台放送だけは周波数がわかっていたので、さっそく合わせてみたけれど、室内からではだめみたいでした(お外で今度ためしてみよう)。

いろいろ聞こえてくるなかで、とても奥ゆかしい女性の声の、日本語の放送があったので、興味をそそられてしばらく聴いていたら、それはFEBCというプロテスタント系キリスト教の放送局でした。毎晩1時間と少しだけ、やっているらしい。最後の最後に、お祈りがあって、そしてさらにそのあとに周波数やコールサインを言うのだけど、そのときにわかったのが、放送局が韓国の済州島にあるということ(不思議におもって後で調べたら、「日本の放送法では日本国内での宗教放送局の設置が認められていないため」済州島に移されたそうです)。

このラジオでの記念すべき初視聴は、プロテスタントの放送局。。。先日、プロテスタントに入信するには、「あかし」の体験がやってこないといけないのだ、だから自分が入りたいと思うだけで入れるものでないのだ、という話を聞いて興味をもったばかりだったので、若干ご縁を感じています。

しかしアンテナをひょいっとのばすだけで、室内のおふとんの上で(窓際でもないところで)きれいな音で受信できるとは、予想外でした。FEBCの後は、中国語の放送にダイアルを合わせて、直観的にこれはNHKの中国語講座!と思ったのを、しばらく聴いていました。久しぶりの中国語講座でしたが、解説者の方の舌たらずの話し方が懐かしかった。。。

今日の昼間は、英語の放送が出てきたのでしばらく聴いていました。ニュースなどを聴いてたのだけど、てっきりイギリスの放送局かと思ってたら、ニュージーランドの放送局でした。

20150801_123201 ラジオを聴いていると、久しぶりに手仕事をする気になり、ずっと懸案だったつくろいものをふたつ、やりました。やってみると簡単なことなのに、なかなかやる気力がでずにいたのだけど(このとこ全般的に何をするにも気力が足りない感じで)、でもやってみたら、そのあいだはちょっとほっこりと過ごせました。

* * *

遠く外国の地から出されている電波を、自室にいながらキャッチできることに、感慨をおぼえます。天王星は、占星術では水瓶座と結びついていて、その手前の山羊座の「ローカル性の縛り」を越える(空間を越える)性質が言われているけれど、ラジオが天王星的な機器だと言われるのもうなづけます。

もひとつ次の魚座(海王星)になると、空間だけでなくて時間も越えるわけなのだけど。そして海王星になると、もう機器はいらなくなるんだろな、という感じもするのだけど。。。(占星術的に、来年わたしはプログレスの月の新月を魚座で迎えることになっていて、次の30年サイクルはどんなふうになるのかなああと想いを馳せています)。

自分にとってラジオはひょっとして、p月新月を水瓶座で迎えたここまでの30年を、総まとめしつつ、次の魚座への道を案内をしてくれるデバイスなのかしらん?

* * *

時期をおなじくして、大好きな友人が、不思議なご縁があってホルストの『惑星』に合唱で出演したという話をききました。指揮者がフィンランド人女性だったこともあって、ぐっと興味がわいて、その演奏をBBCのラジオのネット再放送で聴きました。すごくいろいろにびっくりしましたが、特に、最終楽章の「海王星」は、からだに浸みいるようなふうで、その最終楽章の最後の最後に、友人が参加した女性の合唱(言葉のない声のみ)が入るのだけど、ふわあとまさに霧のように声がリピートしながらフェードアウトしていくとき、わたしの意識も飛びました。。。

http://www.bbc.co.uk/programmes/b063dgp0 (BBCラジオのネット再放送、期間限定なのですが)

この『惑星』のラストの女性の合唱隊は、ステージ外(見えないところ)に配置するよう作曲者のホルストは指示していたそうで、今回の演奏でも、友人たちElysian Singersのみなさんは、客席からは見えない天井桟敷で歌ったんだそうです。客席で聴いていると、天から降って来るかのように聞えたろうな。

ホルストが作曲した当時はまだ冥王星が発見されていなかったから、「冥王星」という楽章がない、というのも、ぐっときました。

冥王星が発見されるのは1930年になってから。そして2006年には惑星を「降格」して、今ではもう惑星のくくりには入らなくなっているので、今の時代はまた、ホルストの作曲したままの『惑星』がしっくりくるようになった、とも言えます。

冥王星の不在は、どんな意味なんだろうな。冥王星が担っていた役割は、今どうなっているんだろうな。。。

“戦争法案”は廃案を、と小さく声にしつつ、みんなの大きな声がひびきわたっているのを聴いている、この夏。「現実」という大粒の粒子と、星々の微細な波長、両方がお互いに浸透しあってそこにあることを思っています。

posted by な at 01:38| Comment(0) | 天体と自分

2012年09月02日

涼しい日のつれづれ

まだまだ暑さが続いていて、体がしんどいですが、今日はほんとうに久しぶりに雨が降って、涼しくなって、ほっとしています。涼しい窓辺に寝ころんで本を読んで、そのまま眠ったりして、至福の日曜日でした。

真夏の暑さのときは、とにかくただ存在する、ただ行動する、というふうだったけれど、涼しくなると、ぐんと落ち着いて「考える」とか「振り返る」とかができるようになりますね。勢いよく拡散するような獅子座のエネルギーから、まとまっていくような乙女座のようなエネルギーへの移行って、こういう感じなのかな、と思ったりしています。

夏の日Img_2918_2差しを浴びてできあがった今年の梅干し。今、夜のお茶タイムに、ほうじ茶といっしょに口に入れると、ちょっと落ち着きます。この感じも、獅子座から乙女座?

* * *

少し前から、また、異種間コミュニケーションのワークを、もっと積極的にやっていきたい気持ちが頭をもたげていて(これ、周期的に来る)、でもまたい つものように、出る杭が打たれる感じで、「わたしには、できない」と書いたトンカチに、頭を打たれたようになっていました。

知人の知人の、「アニマル・コミュニケーター」のお仕事をされている方のブログを目にしてしまって、なおさら、自分には無理と思ったのでした。

というのも、その方のブログからわかるのは、動植物自然界とコミュニケートするのは、「その能力、そのお役目を授かった人がすること」という前提があること。子どもの頃からそういう子でした、というようなお話もあったりして、ふつうの子どもだった自分には、そんな能力やお役目があるはずもない、と思いました。

ただ、わたしが異種間コミュニケーションを学んだ先生は、口をすっぱくしてなんどもなんども、「コミュニケートする力は、万人にある」と言っていて、「そうなのだという確信を持つことで疑念に打ち勝つのを自分は手伝っているだけ」という人でした。

(でも、その先生にして、わたしは「固い殻(=疑念の殻)に閉じこまってるね、割るのが大変だわ」と言われてしまったんだけれど)。

先生のところの合宿で集中的に教わってから、あとは自分で練習を重ねていきなさいと言われて送りだされたのに、ぱったり練習できなくなって久しい…。

当たり前のように、「そうなのだ、これはそもそも、もともとの、昔ながらのコミュニケートの仕方なのだ」と思い出せればなぁ、と願う…。

* * *

数日前、自然農で田畑を始めたともだちが家に遊びに来てくれて、おしゃべりしていて、その人が「肥料を入れなくて、なんで育つんだろうって、やっぱりいまだに不思議なんですよね」と言ったとき、自分の中には「それは、意外だな」というリアクションが出てきました。

それでわかったんだけれど、自分の中で、自然農については、「肥料をあげなくても、植物は育つ」のは、もう「当たり前」のこととして納得がいってること。だから それを「不思議」とは思っていないこと。人間の裁量で肥料を入れないで、自然の大きな裁量にまかせるほうが、全体としていいと得心しているのでした。

それでいくと、動植物自然界とコミュニケートすることについては、「生きものとして、それができるのは当たり前」というふうに納得するまでにはまだ至っていないのだな…。だから、自分にそれができたときは「不思議」だと思ってしまうし、当然のように「できます」という人に出会うと「すごいなー」と思ってしまう…。

野口整体の創始者、野口晴哉さんが、10代の頃、手を当てて(愉気して)人の病をどんどん治してしまったとき、まわりは驚いて、それで口コミでどんどん病 人が押し寄せてきたらしかったけれど、息子さんのひろすけ先生は、「野口晴哉がすごかったのは、この能力が『自分だけにある』と思いこまなかったところですね」といつもおっしゃる。「手をかざして人をいやすことは、歴史を通じて、徳を得たえらい人だけにできること、とされてきていた。それを、万人に返そう としたんですね。誰でもできる、と。それがよかったんだと今も思っています」と。

わたしは愉気については、「誰でもできる」と、頭では疑っていないのに、いざ実践する段になると、不思議だな、とか、自分にもほんとにできてるのかな、とか思うときもあったりする…。だからまだ中途半端な確信具合…。

異種間コミュニケーションは、まだ頭のレベルでさえも疑念があって、だからできたとき(コミュニケートできたことを実証出来るようなやり方で練習した時に成果が あっても)も、「偶然だよね」などと考えてしまいます。「偶然」と片づけるには具体性がありすぎるような場合であっても、「なかったこと」にしがち。

異種間コミュニケーションは、誰にでもできることとして教えたり実践したりしている人の数が、自然農や愉気に比べて、まだ身の回りに少ないっていうことも、関係しているのかな?

ただ、意外にも、最近関心を惹かれている世界各地の先住民の文化から、疑念をほどくきっかけをいくつもいただいています。科学的な方法(実験を通 して実証していくやり方の練習)で成果が出ても、やっぱり割りきれないわたしの「殻」が、遠回りだけれど、先住民の人たちの世界観と触れることで、開き始めてるような……。

それよりなにより、先住民のみなさんの、円い世界観に触れるたびに、いいようのないうれしさに包まれます。

Img_3045 昨日も、ブラジルのインディオ、アユトン・クレナックさんとの旅の記録を書いた長倉洋海さんの本『鳥のように、川のように』を読んでいて、なんども、なんども、うれしかった。

この本の扉にあった、アユトンさんの言葉です↓

「私たちは子供たちにこう教えるのです。『地上にやってくる時には物音をたてずに鳥のように静かに降りたち、やがて何の跡も残さずに空に旅立っていくのだ』と。『人は何かを成すために存在する』という西側の哲学は銅像を作り、人の偉業を記録に残そうとしてきた。だけど、”人は何もしないために存在してもいいじゃないか”と思うのです。生命を受け、生きていること自体が素晴らしいことなのですから」

本の中に載っていた、アマゾンの熱帯雨林の中にぽつんと見えるドーナツ型のヤノマミ族の家の写真も、心に残りました。20家族、100人あまりが暮らすこの家の中には、壁はなく、真ん中の大きな広場は「人間の根っこ」と呼ばれていて、村人たちのへその緒が埋めてあるそうです。自分たちがどこから来たのか、忘れないため、とのこと…。

西側諸国の、壁に囲まれた四角い家とは、あらゆる意味で対照的…。

* * *

自然農を始めたともだちとおしゃべりしてる中で、もうひとつ、畑や田んぼをみんなでワイワイやるのことへの苦手意識についても、ヒントがありました。

わたしが農的なことに関わりたいいちばんの理由は、なくしたつながりをとりもどしたいからなんだ、ということ……虫や植物や動物や風や雨やそういうみんながめぐっている場に身をおいて、そこの一員にさせてもらいたい気持ちがあるからだということが、改めてわかりました。

自然のめぐりの場では、じっと静かにしていて初めてみんながそばに来て姿を見せてくれます。こちらが心身ともに、わさわさにぎやかにしていると、出会えない…。出会えなければ、仲間に入れてもらうことも叶いません。(人間社会だと、にぎにぎと華やかにしているほうが、みんな興味を持ってそばに来てくれる印象があるので、対照的ですね…。)

人間同士で楽しくワイワイというのも、好きだし、すてきなことだと思うけれど、農的なことに関わる場面では、そっちに引っ張られちゃうと、自分の今の望みからは離されてしまうんだな、ということがクリアーになりました。

社交的になれない自分にうしろめたさを感じていたけれど、そう感じなくてもいいんだな、と思った…。

* * *

Perloyster 異種間コミュニケーションについては、「ほんとにわたしにできるの?」と、なかば叫ぶように問いかけて、ひさしぶりに動物たちのオラクルカードを引いたら、真珠貝のカードが逆位置で出ました。

このカードの逆位置の場合のメッセージは「出し惜しみしないで。真珠の美しさは、殻が開いてこそ。さあ殻を開いて」というもの。

できるよ、とか、できないよ、という答え方でなくて、「それはすでにあなたの中にあるよ、殻を開いて」という答え方をされたことが、うれしかった。

こういう答えなら、「それはすでにみんなの中にあるよ」と言われているのとも同じ…。

切り離されているところから、輪の中に戻ること。そうしたら、大いなる安心も戻ってくるんだということが、頭では、すでによくわかっています。あとは心でわかることだなぁ…。

posted by な at 23:12| Comment(2) | 天体と自分