2014年09月26日

生木の椅子づくり〜グリーンウッドワーク

20140921_082835_2 この9月は、フィンランドの森でマッシュルームとベリー摘みをする日々、ロンドンでの短いお仕事の日々の後、イギリス・ヘレフォードシャーの森で1週間wifi不通のオフグリッド生活(調理や暖は焚 火、トイレはコンポスト、灯はキャンドルとオイルランプ、寝床はベンダーという樹木の枝を丸くまげてタープをかぶせたオープンタイプのテント)で、手作業 で椅子を作っていました。。。 

20140916_163952 樹皮がついたままのアッシュの木の丸太を、ふたりがかりでひっぱいあいっこするスタイルのおおーきなのこぎりでカットする ところから始まった、グリーンウッド(生木)の椅子づくり。想像以上にチャレンジが大きくて、途中で一度は「自分にはできそうにない」とあきらめたほど だったのだけど、ほかの皆さんよりだいぶん時間がかかったり、いろんなマチガイもいっぱいしたけど、なんとか完成しました。

20140921_104455 一緒に椅子づくりをした仲間のみなさんが、とっても気さくで心やさしい人たちばかりで、よく笑わせてもらえたのと、この工房の主宰者であるマイクさんとア シスタントの方々が、おおらかに温かく(ときに辛抱づよく)プロセスに寄り添って、各自がつくりたい椅子をつくれるよう巧みに助けてくださったので、ほん とにおかげさまでした。

次第にマチガイをおかすことさえもむしろ面白くなっていったのには、自分でもおどろきました。アクシデントや予想外の展開も、オープンに迎え入れてみちゃうと、また別のなにかが表れること。。。

20140917_14105220140916_15470520140921_091710カットした丸太は、同じアッシュの木々に囲まれた森の中のオープンエアの工房で、穴開け用の小さな電動ドリル以外は機械類を一切使わずオール手作業で、樹皮をはいで、割って、削って椅子のパーツの形にするのです。

20140919_121651割るのも、削るのも、木目に沿って行うので、割ってみるまで、削ってみるまで、そのパーツがどんな形になるかはわからない、というのがうれしかった。。。 その木がなりたい形になる、というところがうれしいのでした。ふしがあったりすると、ふわんと曲がるのです。

20140917_154351_2椅子の背になる部分など、左右均等な「曲げ」が必要なパーツは、焚火の火でわかしたお湯の湯気で1時間蒸しあげてから、やはり手作業で曲げをかけて、焚火の火で温めた空気で乾燥させました。 こうすると左右同じ角度に曲げをかけられます。

  そして最後は、くぎもなにもなしにパーツ同士をむぎゅーと押し合わせて、組み立てました。木が乾燥するときの縦横の収縮率の違いを用いて頑丈に組む方式で、こうして組むと、もうぶらさがってもビクともしないほどの強度に。

20140921_113825 フレームができたら、最後は紐を編み込んで座面をつくりました。編む日の朝、一部の紐をアシスタントのセオさんにこの森のエルダーベリーの実で紫に染めてもらうことができて、しましまの座面になりました :)  ベリー大好きな自分にとって最高の色味! 

20140921_151004 編みのパターンも各自すきなものを選んだのだけど、難しいパターンを選ぶと間違えてなんどもほどいてやり直したりすることになってなかなかチャレンジ で。。。。 わたしは比較的簡単なパターンを選んだけど、まちがえたし、作業が遅いので、難しいパターンの人たちと同じくらい時間かかりました。。。が、 なんとか最終日の夕方に無事完成しました!

20140919_214508 その晩、ようやく心底ほっととして、森のふちにある、丘を見下ろす広い原っぱで今回の学びについて思いめぐらしつつぼーっと星空を見上げていたら、すーっと流れ星が1つ、流れました。お祝い、のように思えました。

20140923_102537 できあがった椅子をミイラみたいにプチプチでぐるぐるまきにして、連れ帰ってくるのもなかなかおもしろかったです。。。

森からロンドンへ電車で出るあいだ と、ロンドンの街中から空港へ地下鉄で移動するあいだと、ヒースローから成田へそして家までの道中、ぐるぐるまきのままの椅子に腰かけて休んだりできて便利でした  :)

* * *

いつか、と夢の次元で願ってたことがこんな早くほんとうになったことに、いまでも驚いているようなふうだけど。。。マイクさんをはじめいろいろにお世話に なった皆さま(日本で、イギリスで)と、椅子になってくれたアッシュの木とエルダーベリー、迎え入れてくれた森のさまざまな存在の皆さま(夜中に歯磨き粉 のふたをがんばってかじってたねずみくんにも)に、ありがとうをお伝えしたいです。

20140918_083431 20140916_161554人と森をつなぐ、マイクさんのグリーンウッドワーク。椅子をつくる、ということだけでなくて、そのプロセスそのものと、それをとりまく衣食住のすべてが有機的なところが、ほんとうに大好きです。

そして、工房主宰者としての、マイクさんの姿勢も、大好きです。「自分やアシスタントは、みんなが自分の作りたいものを作るための情報提供者なんだよ、みんな、自分の好きなようにやってみていいんだよ、ただし自分でリスクを負ってね」とマイクさん。「あなたは椅子づくりを教えてくれる”先生”で、われわは”生徒”だと思ってましたよ!」とある参加者が言うと、「その”教育”概念は見なおしたほうがいいね!!」とマイクさんは大声で言って、笑っていました。。。

あんなふうに、ものづくりをガイドできる人、かっこいいな。チャレンジや自主性を励まして、なおかつ、「結局結果が出なかった」ということには決してさせないよう、それとなく目配りをしつづけて全力でサポートしていくのは、かなりすごいことなんじゃないか、と思った。。。特に自分が落ちこぼれぎみだったので。。。

20140925_114320_2 いつか、あんなふうに人と森、人と自然、人とその人自身の尊厳をつなぐ場づくりが、わたしにもできたら、うれしいな。そのためにも、まず自分が、このつながりを生きることを、深めていきたいです。

連れ帰ってきたこの椅子も、それを助けてくれますように。。。

マイク・アボットさんのサイトはこちら(マイクさんによる森の工房での春〜夏の椅子づくりコースは2016年までの予定です)
http://www.living-wood.co.uk/

posted by な at 00:43| Comment(2) | ひと であること

2012年05月09日

新しい先生♪

Img_6679 例年のように、南側の窓の向こう側にゴーヤを植えました。毎年ゴーヤのふさふさの緑のカーテンがサンルームを涼しくさわやかにしてくれていて、今年もぜひお願いしたいと、地場野菜をつくっているおばさんの手になる苗を植えたのでした。(写真は去年の夏)

ところが今年は1つ問題が。

同じ庭を中庭のような形で3軒の家が共有していて、その右隣のお宅の大型犬のわんこさんが、この冬あたりから、庭に誰かが入ってくるだけで激しく吠えたてるようになって。

そのおかげで、飼い主にあたるお隣さんの女性が大変困っているとのこと。立ちあがるとわたしの背丈ほどになる大きなアフガンハウンドの(み)さんは、窓の外を見て興奮して吠えたてるとき、カーテンをひきずりおろしたりしてしまうほどのパワーがあるそうで。。。

ゴーヤの水やりをしに外に出るなら、必ずや、ずっとわんわんわんわん、と吠えたてられるはず。

Photo前は(み)さんと庭で会うと、こちらへわーっと来てくれて、とてもラブリーで、わたしは(み)さんが庭を走る様子を眺めるのも大好きで、隣に暮らしててくれてることが、すごく嬉しかったのですが、最近はサンルームで洗濯物を干しているだけで、わんわんが止まらなくなる(み)さんに、お隣さんがどう思ってるかが心配になり。。。私の目下の目標は、お隣さんの感情の波風を立てないように、(み)さんになるべくわんわん言われないよう行動することなのです。

幸い、川口由一さんのところへ自然農の合宿へ行って教わったことのおかげで、水やりの回数を抑えることはできていますが、それでもまだ苗が小さいうちは、少し気をつけてあげないといけない。昨日は1日暖かくて雨が降らなかったので、今朝はじょうろをもって外へ出て水やりを開始しました。

案の定、(み)さんは窓辺に来て私を見つけると、わんわん!とあの低い大きな声で吠え始めました。

(み)さんは最近、目を見据えられるとなおさら吠える、ということはすでに知っていたので、顔はゴーヤのほうに向け、水やりを続けながら、心の中で親しみを全開にして「おはよう、(み)さん」とあいさつしました。

そうしたらとたんに、静かになりました。

ここ数日、大好きな本『動物はすべてを知っている』を久しぶりに読み返して、忘れていたことをたくさん思い出させてもらっていたところでした。動物は人間がことばや行動に表す以前の想念を、まるまま感じ取っている、ということ。動物の前で人間の想念は丸裸なのだということ。

すぐさまそれが証明されたような展開に、「これは単なる偶然か否か」と思ったりもしましたが、想念が丸裸なのだから、動物の前では最善の想念でいるように、と思いだし、そのまま親しみを全開にしたまま、水やりを続けました。

(み)さんはわたしが水やりを最後までやり終えるのを、だまって見ていました。

部屋に入る前に振り返って、(み)さんと目を合わせました。じっと顔を見つめたけれど、(み)さんのほうもわたしをおだやかな表情で見返してくれていて、吠えなかった。自分のチャレンジは、これが本当だと信頼することなんです、今日はそこをサポートしてくれてありがとう、と心の中で言いました。

「1年前には、このことが本当だと学ぶために、はるばるカリフォルニアまで行って勉強や練習をしたのに、ぜんぜんだめだめな自分です、ごめんなさい。どうかこれから、わたしの先生になって、わたしがこれを学べるように助けてください」とお願いすると、(み)さんはひとつまばたきをしました。

なぜか、その後、その場に立ったまま、涙がこみ上げてきて、(み)さんに見守られたまま泣きました。

* * *

習慣的反応というものが、あるということが、ひどくはっきりとわかりました。「本能」と言い換えられたりもすること。

わたしがデフォルトで疑ってしまう傾向、はっきりした事実が起きているのにそれを「偶然だ」「気のせいだ」「思いこみだ」と思ってしまう傾向。「動物や虫に高い知性や霊性があるなんて、気持ちが通じるなんて、夢物語り」と思う傾向。それは根深い習慣的反応なんだ、自分がそうしようと選んでいるつもりもないうちから、すばやく立ちのぼってくる習慣、すばやく立ち上ってくる衝動なんだと、わかりました。

『動物はすべてを知っている』の中に、蠅との友情談があるのだけれど、そこで著者のアレンさんが蠅のフレディーと交流するにあたって、1つだけお願いしていたことがありました。
顔、手など、肌の露出している部分を歩き回らないでほしい、ということでした。

そのお願いをするとき、アレンさんはフレディーに「ヒトの表皮上をそのように歩くと、わたしの種のメンバーたちの暴力的な気分と行動を誘発する傾向があることを、注意深く彼に説明した」そうです。そしてフレディーは1回たりとも、このお願いにそむくことはなかったとのこと。

アレンさんも、自分の中にある、生き物に対する古い固定観念や衝動が立ち上ってくることがよくあったと、本の中に書かれていました。そういうものが自分の中にある、ということを認めたうえで、上手に回避する方法を探したようでした。

わたしに必要なことも、そこのところの工夫だ、と心底思いました。

わんわんと吠えたてる(み)さんをうらめしく思ってしまったことがあったことを、謝りました。

同時に、もし、(み)さんやわんこ族のみなさんが、見慣れない人影を庭に見た時に思わず吠えてしまう、ということがあるとしたら、それも、種としての習慣的(本能的?)傾向のせいなんだと思いました。そういう習慣的反応をする時があるからといって、その生き物に、それ以外の高貴さや知性や霊性がないと断定するのは、やっぱりおかしい。

そうつくづく思いました。

人間のみなさんに、「人間以外の生き物やものには、人間と同等かそれ以上の知性や霊性がある」と言ったら、頭がおかしいと言われそうな雰囲気が、まだ実際にあるけど。。。

アレンさんが教えを乞うた、ネイティブアメリカンの方がきっぱりと言ったように、それは、人間以外の生き物やものに関する、人間のみなさんの「意見」です。「意見」を聞きたいなら、人間に聞いたらいい。けれど、人間以外の生き物やものに関する「事実」を学びたいなら、その生き物やものに聞くしかないです。

聞けば、今朝の(み)さんのようにみんな答えを示してくれる。。。昨日のてんとう虫や、のらねこのくろちゃんもそうでした。

すぐに人の「意見」にぱっと染まりやすい自分なので。。。行ったり来たりだけれど、見失ったらまた思い出す、を繰り返していこうと思います。

posted by な at 12:52| Comment(3) | ひと であること

2012年04月23日

はるか昔へ、SOS

Img_2240草が元気にあおあおとしてきて、うれしいこの頃。自分にとっては、なかなかに難しい日々が続いていますが。。

うれしいことが、ありました!

数日前、ながながとやっていた仕事がやっと終わって、お祝だ♪と、うきうきしながら市民図書室へ行きました。そして、今日はなんでも好きな本を読んでいいのだな〜と思って棚を見まわし、なにげなく目にとまった『大人の友情』(河合隼雄さん著)という本を借りました。

Img_2251 図書室を出ると、桜の花びらが風に舞っていて、手のひらをひらいたら、乗りました。毎年、風に舞う花びらをキャッチできたら、その1年は幸せ、とゲームのようにやってきたのだけれど、今年はほんとうにあっさりと、手のひらに乗ったのでした。

その夜、友達がブレンドしてくれた薬膳茶を「お祝茶」として飲みつつ、借りてきた本をさっそく読みました。エッセイなので、か るーく読める本でした。本の終わりのほうに、「人間以外のものとの友情」について取り上げた章があり、その中で、鎌倉時代に「島にラブレターを書いた」という僧侶のことが書かれていました。

あらゆる生き物や自然を愛する宗教者と言えば、最初に思い浮かぶのがアッシジの聖フランチェスコですが、この明恵上人という僧侶も、聖フランチェスコみたいだなー、と気になりました。しかも明恵上人は、夢日記をつけていた、とも書いてあり。。。

数日後、近所の図書館(市民図書室よりも収蔵書が多い)へ行き、明恵上人の本を探すと、同じく河合隼雄さんが、明恵上人にフォーカスして書いた本がありました。『明恵 夢を生きる』という本です。読み出したら、夢中になりました。

明恵上人にはいろんなエピソードが残ってますが、蜂が水に落ちて困っていたり、雀の子が蛇に食べられそうになったりしているところを、遠隔で察知して、助けを出したりしたそうです。

Photo_4 お弟子さんの筆による、明恵上人が木の上で座禅している絵が残っていますが、まるで自 然の一部のように描かれていて(人物以外の風景が画面に占める面積が多い)、明恵上人の足元ではリスが興味深そうに見上げていて、背後には小鳥が飛んでいます。

肖像画としても、肖像がこんなふうに背景に溶け込んでいるのは珍しいと思いますが、座禅像としても、小動物が一緒に描かれているのは異例だそうです。

ますます、聖フランチェスコみたいだ、と思っていたところに、明恵上人が晩年に本拠地としたお寺(栂尾山の高山寺)が、1900年代になってから、アッシジの聖フランシスコ教会と「ブラザーチャーチの約束」を結んでいたことを今しがた知って、またびっくり。

仏教とキリスト教とが、こうやって手をつないでいただなんて。世界で初めて、異宗教間で兄弟関係となっていたんだなんて。。!

実は自分は、祖父が仏教の僧侶で、でも幼稚園はフランシスコ会(聖フランチェスコの教えに基づく会)に属する幼稚園に行き、自分の宗教観はこのせいで早くから混乱させられてしまったのだと思っていたけれど、混乱から「つながり」へ行く道が、あるのかも、という気がしてきました。

* * *

人間が動植物よりも上、みたいなふうに言うところや、本当の神様は1人だけというところが苦手で、キリスト教は今もやや苦手です。

仏教も、やや抵抗があります。万物に神を見る神道のほうがしっくりきますが、その神道を壊してしまったのが仏教だと感じているからです。(でも神道もいろいろに利用されてきた歴史があって、軍人を神様にしたりするところはどうしても好きになれません。。)。

でも聖フランチェスコと明恵上人には、ものすごく惹かれます。

Photo_3 聖フランチェスコは、その風貌(腰紐に3つの結び目をつける、茶色のローブを身に纏うなど)がまさに古典タロットの「隠者」そのものですが、明恵上人もやはり、隠者を志向しつづけた人のようでした。一時期はじっさいに俗世を離れて隠遁しつつ修業したそうです。ただそれを続けたい想いとはうらはらに、人の世に戻らなければならないというプロセスが彼の人生に大きく働いてきて、それを観念して受け入れるんですが。。

聖フランチェスコがキリスト自身を慕ってやまなかったように、明恵上人もブッダ自身を慕ってやまなかった。。。それに2人とも、うたをつくるのが好きでした。しかも2人は同時代に生きていました。明恵上人は1173年〜1232年。聖フランチェスコは1182〜1226年。

興味深いです。

* * *

でもって、実は、この2人よりもさらに昔の人、老子が気になっています。。。
なかなか老子には簡単に近づけなくて、遠回りしていますが。。。

老子は。。。仏教に先んじて足るを知ることと殺生しないことよしとし、キリストに先んじて弱い者を尊び、ガンジーに先んじて非戦をよしとし、シューマッハーに先んじて小さきをよしとしてたことを、今さら知って、びっくりしています。

まだ端っこをかじっただけですが、老子の自然観、女性観も、おお、と思うことが多いです。

今をどう生きたらいいのか、途方にくれるばかりの自分は、はるか昔の人に助けを求め中のようです。。

posted by な at 20:55| Comment(0) | ひと であること