2015年08月13日

なつやすみの読書感想文?

20150812_211141 西井一夫さんの『「昭和20年」東京地図』と、小熊英二さん&上野千鶴子さんが鶴見俊輔さんにインタビューした『戦争が遺したもの』を続けて読んだ。昭和 20年は、今からもう70年前。。。70年前がどんなだったかを、その。。空気みたいなものを含めて知りたかったみたい。

西井さんも鶴見さんも、「確かさらしさ」に健やかな疑いを持っていたんだな、というのがさしあたり、よく伝わってきたことでした。ほんとに確かなことは、ぼんやりしたなかにある、というような。

そこのところ、なんか、自分にとっても肝心なところな気がするのだけども。でも自分は無意味にぼんやりぼおーとしてばっかりなこの頃。。(ある「確からしさ」がみんなに押し当てられていた戦時中と、その「確からしさ」がはっきりと崩壊した戦後の空気を、お二人ともが体験されておられたことが大きかったのかな、とは思うのだけど)。

20150812_211614_2 しかし、西井さんの本は半分くらいから、半ばつらい想いを押して読んだのが、鶴見さんの対談本は暗くつらい想いをせずにあっという間に読み通せてしまったのはなんでだったか、一晩寝たら、起きぬけに、ぱっとわかった気がしました。

鶴見さんは、人を裁かないからなのだ。たぶん。。。だから言葉の周縁に丸みがある。西井さんは、どちらかというと、ポカポカ殴っちゃうような勢いのある人で、それは文章にもはしばしに表れていて。西井さんなりの「おい、こら」感がちゃんとあって、裁くわけではなかったけど、嫌われ役になってでも言うことは言うのだ、というふうで、それは西井さんのところで働いていたときわたし自身もよく目にしていたし、あのあり方がわたしは好きでもあったけど)。

鶴見さんは、人の行動や思想を批判したりすることはあっても(あの時期のあの仕事はつまらない、とか)、同じ人が別の時期にしたことについては「評価をしているんだ」と言い添えたりもするし、究極的にはその人の行動・思想がどうであれ、その人自身のことは、否定しないのだった。その人のそのとき置かれた状況や資質を合わせてとらえていて、行動に表れたその表面だけをバッサリ判断するということはしなくて。それにどちらかというと、思想や行動の内容よりも、その人の心の「構え」のほうを見ているというか。そこに共感できるものがあれば、どんなに自分とは相いれない考え方や行動スタイルの人でも「でもいい感じだと思った」とか「でもいい奴なんだよ」となる。

自分が大変つらい想いをさせられた相手に対しても、いろいろ言いはしても、最終的にはその人を責め立てていくようなことはしてなかったのが印象に残ったのでした。

裁かない、ということの根底には、鶴見さんがご自身を「悪人」だと自認していて、裁けるような立場にない、と心底思っていたところからきているのもあったと思う。ほんとうに一貫して、常に正義の側、大義の側、裁く側には立たない人なのでした。

自分の目に余るようなことが起きているときでも、それを「悪い」とかいって糾弾するのでなくて、とにもかくにも「あれには困ったよ」と言う。そうやってひたすら自分が「困って」いるのだけど、そこから相手を責めるということへ転じないのだった。過ちをしてしまったらその落とし前を、その人なりのつけかたで、つけるといい、という前提はあったみたいだったけれど、過ちを責めるということはしない人だった、というのが私の受けた印象です。パッシブにそこにいて、その都度知恵と工夫でなんとかやっていて、アクティブな攻め・責めのほうへは行かない。

Lehavre 鶴見さんの対談本は、読後感が、カウリスマキの映画を観た後みたいなふうでした。。。特にこないだ観た『ル・アーブルの靴磨き』の後味と、よく似てた。(ほんとに好き、この映画。)

* * *

「答えを生きる」というようなフレーズを少し前から聞くようになって、ほのかに心の中にはハテナマークが浮かんでいたのだけど、鶴見さんの処し方を知るにつれて感じたのは、彼は答えを生きなかった人だったんだな、ということ。鶴見さんは一貫して、最低限「過ちを犯さないように」というところでやってきたんだ、と感じた。最低限の過ち、つまり戦時中に「人を殺さない」ということとか。。。

そして過ちを犯さないために、そのときどきでできることをした、それらは「答え」「正解」などでなくて、過ちを犯さないためのそのときどきの「手段」でしかなくて、だからそのときどきで自由度が高かった。

「答え」を生きてしまうと、その「答え」が大義となって、固まっていって変化できないものになる恐れがあって、たぶんそこが「答え」を生きることと、「最低限過ちを犯さないように」生きることの違いを生むんだろうな、と思いました。

これはわたしの周囲だけなのかもしれないけど、「○○をしない」ということよりも、それをしないために「○○をする」という、その「すること」のほうにフォーカスを合わせていく”ポジティブさ”のようなものが良しとされている雰囲気を近年感じていて、「しないこと」のほうに立脚することは、なんだか”ネガティブ”な感じでやりずらかった。。のだけど、でも鶴見さんの処し方には、やっぱりすごく共感した。

F.M.アレクサンダーが、抑制というコンセプトに行き着いて、「誤ったことをしないでいる」ことによって「The right thing does itself (ふさわしいことがおのずと起きる)」と言ったけれども、なんだかそれに近い。

「○○だけはすまい」という、そこに徹しているうちに、出てくるもの、起きてくる展開があって、それらはたとえば、鶴見さんの場合だと、同じ活動をしている仲間内にスパイがいるのかもしれない、という疑いが出たときに、問い詰めて糾弾して内部でリンチに発展するようなことだけは避けたい、というところから、大事な決めごとをしようと集まるときに、最初は雑談ばかりしながらごはんを食べて、お店をどんどん梯子してどんどん食べ続けて、そのスパイらしき人がお金と体力が尽きて脱落した明け方くらいになってから、残った人たちで大事なことを決めはじめる、という手法が出てくる。

ベトナム戦争のときアメリカ兵に脱走を促す運動をして、実際に脱走してきた兵士をかくまっていたのだけど、あるとき脱走兵2人のうち1人がやっぱり軍隊に戻ると言いだして、兵士2人がケンカになったときも、その晩はまず静観したしそうで。翌朝、「軍隊に戻るにしても、せっかくだから日本の文化を少しでもあじわってからではどうか、どこか行きたいところはないか?」と聞いて、その兵士が銭湯に行ってみたいと答え、鶴見さんと2人の脱走兵とで銭湯へ行ってお湯につかっていると、なんだかみんな愉快な気持ちになってきて、結局は「戻る」と言いだした兵士も戻らないことにした、とかいうお話もあった(今出典ページがすぐ見つからないので。。わたしの記憶違いがないといいけれど)。

このどちらのときも解決策は、「こうすればいいんだ!」とヒロイックに叫べるような「正解」なんじゃなかった。どちらかといえば、とんち、という感じの、ぽっとその場で出た知恵、工夫で。その素朴さに、ほっこりするような類のもので。正義や大義なんかとは距離がすごいある。。。柔軟でほっこりした知恵なのだった。

なんかここに、すごいヒントがあるように感じていて。「○○しない」のほうに重心を置いた「パッシブさ」があって、それが、「正しいこと」をふりかざしてしまって起きる暴力や衝突を、避けさせてくれるのかなと思えています。

(憲法9条をだいじに思うのも、そこらへんのところかと。。)

「○○は避けたい」というふうに「避けたいこと」を高密度で考えてしまうと、逆にそれが起きてしまう、というパラドックスは、確かにあると思うのだけど。だからといって、望むことのほうばかりにフォーカスしていくようになると、なにかが置き去りになるように感じられてならなくて。。

たぶん、自分の意志・意思の範囲、想定できる範囲はほんとにちっさいから、頼りになるのはそこからはみ出たものたちだったりするので。。。自分の他力本願なところは情けなくも思うけど、でもやっぱりそこに頼らなければやっていけないという、個人的な実感がある。。

わたしの個人的な関心事に引き寄せて書いてしまったけど、鶴見さんは、「しないこと」「パッシブさ」の力を貫いた非服従の姿勢で、さまざまな局面で現場に行き、デモや実際行動をした方だったことを、書き添えておきます。現実のレベルでどう動くか、理想だけでないところでいつも考えておられていたのは間違いなくて。。。

posted by な at 15:35| Comment(0) | ひと であること

2015年04月24日

体のことば

20150424_164626 野バラが一番花をつけ、ツツジも花がどんどん開いてきた。昨日はひさびさの休みで、洗濯をして片づけものをしてから、浜へ行って、波音をずっとききながら、桜の枝のミニフォーク削り。

ナイフ1本もって出かける楽しさ。。。 だいぶ、休まりました。

このところ、なにかと反省がとまらなくなってた。いろんなことについて、自分のしたこと、言ったことなどについて。でもそれも、なんというのかな、刺激をたくさんいただいたってことなんだな、とわかった。

刺激的なことがあって、そこで自分が反応をして、そのときはめいっぱいになって行動していて。それを後になってふりかえって反省するとき、今度はその場にいた相手の人やほかの人、ものなどにとって、自分の行動はどうだったのか、を検証しているんだな。

そして、あちゃー、となる。でもそれは次回には、そんなふうに迷惑をかけないようにしたい、という、「まわりへの思いやり」からの反省衝動なんだな、と気づいた。

そう気づいたら、その瞬間に、なんだかしらないけど、体がどんどん勝手にゆるんでいって、びっくりした。おもしろかった。。。20150424_140215

もう済んだことは取り返しがつかないことなのに、反省がとまらなくてぐるぐるしている自分のその反応に、さらに反応する自分がいたんだな。そんなことしたって意味ないのに、とか、反省なんてしたってしょうがないし、そんなことするのはエネルギー無駄づかいだよ、自分いじめはしないほうがいいのに、自虐的だよね、とか、いろいろ言う自分。いろいろ言っても、反省がどうしてもやめられなかった自分。

それが、「思いやり」からの衝動だったんだな、と思ったとたん、ぱあーっとゆるんでいった。体は、正直だな。体のことばは、わかりやすいな。。。あのときの瞬間って、たぶん、その「反省衝動」をもっていた「わたし」の部分が、それまでは否定され続けてきたのが、はじめてわたし自身に「受け入れてもらえた、わかってもらえた」と、ほっと安堵した瞬間だったんじゃないか。

わたしは「愛」とかってなんだかよくわからない、とずっと思ってきたけど、このことが起きた日は、わりとくっきりと、「わたしは今日は、わたしを愛したよ」と思った。

「愛」がもし、好ましくて素晴らしくて惹かれているものを、大好きでいる、大切にするっていうことよりももっと、理解しがたい、いやだなと思ってきたなにかを、まるまま、こころの中のほっこりした場所に、すっと受け止められるようになること、なんだとしたら、なんとなく腑に落ちる気がする。

20150412_150213 写真は、こないだ贈りものにつくった、ミニスプーン。ミニフォークの相棒として、桜の枝に、クッキー形をあてて同時につくりはじめたもの。フォークは間に合わなくて、スプーンだけ、旅立っていきました。

キーホルダー的に使ってもらおうと思ったけど、キャンプでの携帯用カトラリーとしても、使えないこともないかもな、もしかして。20150411_171925 20150411_171933 20150411_172933 20150412_140806 20150412_140841

posted by な at 22:48| Comment(0) | ひと であること

2015年04月20日

落ちた

夜3時くらいまで仕事をして少し寝て、朝は8時〜9時台から仕事を始めて、ごはんをつくるのも洗濯もおやすみしてコーヒー飲み続けてひたすら仕事をしつづける日々、今日で4日目。ようやっと先が見えてきた。

今回のはたのしい本の仕事なので、こういうペースでもがんばれて、ありがいな、と思っているけれど、体のほうは意外と困っていたみたいで。。。今朝は起きぬけに、ひさしぶりに気持ちがずずず、と落ちました。。。

ここ最近の自分自身のありようが、ほんとにはずかしくて、おばかぶりに身が細る思い。なにをやってるんだ、わたし、と。。。

こう書くとなんてことないけど、ただなかでは、かなりやばい感じだった。圧倒的な自己否定感。

とくに木工のことを考えたときが、それが強かった。翻訳の仕事に関しては、そういう疑念はうかばないのに。と考えると、やってきた時間の長さがぜんぜん違うことに気づく。

ほんとうにビギナーである、ということをこの年齢になって体験中なのだった。ビギナーなんだから、できない、わからないは当たり前だし、それでいいじゃない、と思う。ただ、「それでいいじゃない」と思えないのは、自分が教わりたいなと思ってそれが実際に叶ってご縁ができてしまった人がすごすぎて、自分なんかが教わったのではいけなかった、と思うこと。もっとあとになってから教わりに行くべき人たちだったんじゃないか、と思うこと。。。

自分はそういう人たちに教わるに値しなかったのに、と、思うこと。

はあ。。。

それで、今朝の起きぬけの、「落ち」が起きたらしかった。つらくて、ほんとにひさしぶりに、助けをもとめました。

「かみさま、たすけて」という感じで、なぜか、「青馬、たすけて」、と心の中で言っていた。

青馬は、昔、学校の帰り道にあった、知らない人の家の庭に立っていた、木(ずっとクスノキだと思ってきたけど、最近木のことを勉強したら、あの木はやっぱりスダジイだったんじゃないか、と思うにいたった。。)。

青馬は、もう切られてなくなっているし、引っ越してしまったからなかなかその場所には戻れていないのだけど。

当時から青馬のところに行くと、独特の身体感覚が来て、それで交流していることがわかったのだけど、今朝、おふとんのなかで、青馬を呼んだら、あれに似た感覚が来た。

それで、いつもならさらなる深みに落ちるところを、ちょっと持ち直せた感じ。

たわごと、妄想、思い込み、とかいろいろな名前で呼ばれる現象なんだろな、これは、と思うけれど、自分にとっては、それがなんであっても、助けになったので、ありがたかった。個人的には、ほんとうに、青馬はそばまで来てくれていたように思う。断言はできないけれど。

精神の危機みたいなものは、そうなってはじめて求めることができるものがある、という意味で、大切だしありがたいものなんだな、と思った。。。

さて、もう一仕事。。。

posted by な at 10:23| Comment(2) | ひと であること