2018年01月23日

尊重したいことは

なんとなく、もやもや。体調もややぐらぐらしてるのもあるけど。

心から楽しい、という瞬間があまりなくなっているこの頃で。
いろんなヘルプのおかげさまで、焦りはなくなってるけど、うすらぼんやりした不安が心の空全体を覆っている感覚が続いていて、どうしたことかなあと思っています。
快適さはあるんだけど、心からの愉快さがない。。。
心からほっと安心する、というのも、あんまりなくて。こないだ、ジョニー・マーの自伝を相方と一緒にソファで読んでいて、途中でつかれて相方の肩に頭をもたせかけて、ちょっと目をつぶっていたときに、久しぶりに、瞬間風速的に、心からほっとする感じが来たけれど、そのときに、もうそれがすごく久しぶりだったんだーと実感した。
このところ落ち着いてるんだけど、そこはかとなく安心がないんだな。。。
どこか、宙ぶらりんな感覚で、節目の季節だけど、いまひとつ、節目の感覚はキリッとしていなくて。自分と世界や事象のあいだに分厚い透明の壁があるみたいな感じ。
この感じ、ときどき来ていたな、今までも。
いやだな、とか、ひどいな、とか、乱暴だな、と思うことが、人との関わりや、仕事上のことや、世の中のことで、いくつかあったのでした、このひと月くらいのあいだに。
うれしいな、ありがたいな、と思うことも、いっぱいいっぱいあったんだけど、いやだな、ひどいな、乱暴だなと思ったことのほうが後を引いちゃうし、気になってしまう。
たぶん、うれしいなやありがたいなは、その場でその気持ちをぱあーっと生きることができたけど、いやだなひどいな乱暴だなは、その場でその気持ちを生きることができなくて、だから後に残るんだろな。。
森山大道さんが、ご自身の写真を擦過傷に例えていたことがあったけど。事物と接したときにどうしても擦過傷的なキズを負う感覚があるのを、どうしようもできない場合、どうしたらいいんだろか。
大したキズじゃないんだから、そのままほうっておく、というふうにしてるけども。ほんとはもっと安心していたいし、痛くないほうがいい。
そのためにどう工夫したらいいのか、わからない。
でも、「わからない」って、あんまりむやみに言ったらいけないみたい、と最近思うようになった。わたしが「わからない」っていうときは、自分の中にあるわからなさと今は一緒にいる、その状況を描写しているだけなんだけど。ひとにはそれがただの状況描写として受け取りにくいみたいで。
わたしは状況を描写しつつ、待つ、とか、さらに見続ける、とかを、自分でしようと思っているわけなんだけど(今は「わからない」けど、それを「わからない」という言葉にして置くことで、そのうちにおのずと何かが開けてくると、漠然とした信頼がある)、でも「こうしたらいい」というふうに急いで答えをくれようとする人、はげましてくれようとする人がいたりする。
そういうアドバイスがすごくおかげさまで助けになることもあるんだけど、でもじつは私には自然(”大きな”私ともいえるもの)への信頼が究極的にはあって、たった今はしんどくても、ときを待つ、ということをほんとはしたいみたいで。答えは自分の中にある、とよく言うけども。。。
そんな受け身の態度が悪しき精神的習慣なのだーと言われたら、そうかーとも思うけども。
ものごとには、それ自体の、テンポというか、バイオリズムというか、季節というか、そういうものがあるもんだ、と、これは高校生くらいのときからそう思っていて、そのリズムを尊重しつつ暮らしたい気持ちがあったりします。
往々にして、大切にしたいと思っていること(自分の価値観というものかな)を、うまく表現できなくなると、”分厚い透明壁”が出現しだすみたいな気がしてきた。。。
なにか劇的な変化、っていうのにも、あこがれるし、変化にはそういう時期もあるんだろうけど、それがないときだって、植物が育つように、知らないあいだに目にみえないくらいちょびっとずつ自然に変わっている、っていうのが、ほんとうのところなんじゃないかと、思っています。そういう些細で目立たない中に、本質があるように感じる。
ざっくりまとめたら、こぼれおちるものの中に。ぱっとつかんだものの、影の中に。1でも0でもないところに。
posted by な at 01:00| Comment(0) | ひと であること

2017年11月18日

木の奥にある、木目

1週間ほど前だけど、トランプ氏来日関連のニュースを読んでいて、しみしみと暗い気持ちになっていって、あ、これはいかん、と思って立ち止まった。

自分にはマイクロサイズのちっさいことしかできないと痛感するこの頃で、せめて自分の灯りを暗くするのはやめないと、と思ったのでした。

Img_2807_2 Img_2812_2 それで、さじフェスでいただいた、スプン削り用のフックナイフに簡単な鞘をつくりました。ちょっと失敗した。けど使えないことないからよしとする。

自分のものづくりはこんなのばかし。。自分なりに完ぺきをめざして取り組むけど、いつもどこかにずっこけポイントが。でもずっこけてわかったことがいろいろあるし、そうやってやってくうちに少しずつは上達してるんだろうからよしとする!

先日中津川でミルクスツールの座面にしようとちまちま削って整形した桜の板材も、よくみたら小さい虫穴が端のほうにあった。。あららら。ひとまわり小さくなるけど、それもよし、と、そこのとこだけ割り落としました。割り落とした木っ端を見たら、スプーン削りたくなりました。(ミルクスツールをつくろうと決めたのも、(た)さんのお皿のための木取りで出た端材を見て、これ座面になるなーと思ったときで、わりといつもこうしていきあたりばったりに進む。。)。

Img_2795_2 これ桜だし、生木のうちにスプーン1本やってみよう、そうしよう、さじフェスでおそわったやり方のおさらいにもなるし、とナタで粗く整形してナイフでしあげてみた。ナタでの整形は不慣れだけど楽しかった。斧よりもコントロールしやすいかんじ。これはやってくとくせになるかも。。

Img_2797_2 しかし、スウェーデン風のデザインにしてみようとしたら、バランスがどうも妙になっちゃった。自分の感性とは違うデザインだからか、お手本をちゃんと見てないからか。。

それにしても欧米のスプーンはカーブがゆたかでグラマラスだな、と思う。日本の木のスプーンのあっさりした静かなデザインと比べると、ああ文化が違うんだなと思う。

Img_2855_2 柄には、くだんの極小の虫穴がふたつ、残ってたので、その穴を結ぶかたちでハートの模様を彫りました。浅い穴だったからこれで解決。

でも形は納得がいきません。いまひとつときめかない。。なにをどうしたらグラマーとあっさりの折り合いがうまくつくのか、それともそんなのよりもっと基本のところがちがうのか?うーむ。こんなことをあーだこーだ考えるのがまた楽しいって、変態だろか。。

* * *

その後、このとき割り落とした桜の木端のその2とその3で、小さいものもつくりました。ひとつはBarn the Spoonさんのデザインでかわいいな、と思っていたフェザースプーン。

Img_2887_2 Img_2888_2 Barnさんのオリジナルデザインでは柄の表側が羽根っぽくなってるのだけど、逆に柄の裏側を羽根っぽくさせてみたら、柄のおもてがわはうなぎねこのしっぽ風になりました。。。

Img_2869_2 Img_2872_2 木端のカタチのせいで柄の先端はだいぶん薄くなったのだけど、割ったままの木目に沿ってるので、繊維は全部通っているから、強度は大丈夫かな、どうかな。。。様子をみてみます。

フェザースプーンのカタチにはときめいたので、木端その3でもう1本つくろうと始めたのだけど。。。おさじのお皿部分をほりほりしてたら、深く掘りすぎて穴があいちゃった。。。ヨゲさんには、おさじのいちばん深いとこはむこうが透けるくらいうすくしたっていいんだよ、と教わっていたのだけど、さすがに穴があいてはどうしようもないです。Img_2892_2Img_2893_2

  柄のほうは、木目に従っていったらちょうどよくカーブのある羽根ふうになっていたので、お皿部分は削り落して、ブローチにすることにした。

Img_2902_2これからオイル仕上げして、ピンをつけてみる!

木のブローチは、こうやって偶然できる。。。前につくった、現在のお気に入りの木のブローチも、なにかつくった時に出た木端をなんとなくナイフで削っていて(ただ削るのが楽しくて)、そしたら節とそこをとりまく木目のカーブがどうみても靴下のかかとらへんにしか見えなくなって、そのまま靴下型に削ってブローチにしたのでした。

Img_1104 これはもう、わたしが靴下の形をつくったのでなくて、この木端のなかに靴下があった!という感じでした。ミケランジェロが彫刻をするときとおんなじです(ミケランジェロに失礼なくらい、規模が小さい&モチーフが生活じみているけれど(^_^;))。

でもこのブローチは、自分にとっては、木目に沿って削る楽しさを表している大事なブローチです。羽根ブローチも、やっぱり木目に沿った結果なので、やっぱり大事な象徴になるです。

* * *

そういえば、木目について、ちょっと前に書いてたのでした↓

こないだのさじフェスでお会いできた、スウェーデンの木工家ヨゲさんの、木との関わり方、伝統との関わり方、人との関わり方、がしみじみ好きだなーと思うのだけど、特に木との関わり方の部分では、やっぱり、木目に沿うという、あの部分が一番ぐっとくる。

イギリスのマイクさんに椅子づくりを教わったとき、一番心に残ったのもそこでした。

この、木目を断ち切らない、木目を活かすということろが、わたしの(限られた)理解では、グリーンウッドワークが普通の木工と違う一番大きなところ。

こちらから一方的に材に形を押し当てるのでなくて、材と交流しながら、形を決めていく。たとえばスプーンの首のカーブは、もとからそのようにカーブした枝を見つけて、それを材料とすることで実現していく。

繊維が断ち切られないで通っていれば、細く軽くしても強度はちゃんと出る。しなやかで強い、そういうふうになるところが、いつもいつも、ぐっときます。木ってほんとにすごい。

最近は、自分という人間の木目についても、考える。わたしがもし材だったら、すとんとまっすぐな木目の通った素直な材なんかではとうていなくて、ねじれがあって、節もいっぱいある、クセのある材だろな。。。

そういう私のままでも健やかにハッピーにいていいだろか、いられるだろか、と考えるとき、「こうあらねば」という自分像を自分に押し当ててきたことを思う。くせのある材なら、そのくせを活かしてく工夫こそが必要だったのに、みんなと同じまっすぐなものにならなくは、と自分なりに精いっぱい努力を重ねて耐えてきたところがあるような。。。

誰もがみんな、程度の差はあれ、入り組んだ木目を持っていて、それでもがんばってまっすぐなものになっているんだ、と深々と信じていた。みんなががんばれることなら、自分もがんばれるはず、と思ってきたし、この世界に、すとんとまっすぐな木目の通った材もある、という事実を心から信じてはいなかったのでした。。

だって、本当の樹木の材でも、外から見ただけでは木目の流れはわからないことが多いし。樹皮を剥いてみたり、割ってみたりして、はじめてわかったりするわけで。木の中には、外から見えないいろんな過去が形になって残っていて、それが木目を複雑にしていて、削っていく過程でそういうものに出くわしたりする。

(そういえば、坂田学さんが10年かけて完成させたアルバム「木の奥」、すばらしいです。相方の大好きなアルバムで、表題曲の「木の奥」もすばらしい。このあいだ、下北沢440で「Tree Octet」という、「木の奥」と「8人編成バンド」とを絶妙に掛け合わせたタイトルのライブがあって、仕事の修羅場だったけど駆けつけたら、ひさびさにめちゃくちゃ幸せになりました。ライブハウスから出たら、足の裏に3センチ厚くらいの空気の層ができていて、歩くとふわふわしして、完全に「できあがって」ました。ドラムたたきながらギターを弾く坂田さん、ステージど真ん中のドラムセットを7人が取り囲んで、なんとも楽しそうにみんなが演奏していて、最高でした。。)

でもでも!すとんとまっすぐな木目の材も、もちろんあって、樹種によってはそういう材のほうが多かったりもするわけで。。。

みんながみんなわたしのようではないらしい、という、こんな基本的なことを、この歳になって悟っているところです(汗)。もう無理強いはやめて自分の木目に沿って生きていきてくことを、自分に許して行ってはどうか、と思っているところで。。そのための工夫に努力を割いていきたいな、と、まっすぐになるために耐えたりがんばったりする方向で努力するのでなくて、と思っています。

そしたらもう少しハッピーにここにいられるようになるのかなー。

自分はここにいなくていいし、むしろいないほうがいい、いるだけで迷惑をかけている――だからマイナスがせめてゼロになるように、できることをなんとかやって貢献しなくちゃ、ベストを尽くさなくちゃ。。そういうデフォルトの感情サイクルが、変わっていくといいなあと思っています。

posted by な at 19:10| Comment(2) | ひと であること

2017年10月18日

つれづれメモ

昨日夜、相方と歩いて25分ほどの投票所へ。夜の暗さが心地よくて目が休まりました。あわただしい日常のなか、こういう夜の散歩の時間、いいな、と思った。投票の後は久しぶりに地元の喫茶店でお夕飯たべた。

このところ夢が鮮明すぎて、起きぬけにどちらが現実だかわからない感じの毎日。

今朝の夢では、お世話になっている病院に行っていました。待合のろうかは気持ちの良い風が通り抜ける(現実の病院とはぜんぜん違ったけど、ここはそこの病院だということに夢ではなってた)。茶色のふかふかのじゅうたんがひいてあって、小さな鳥が、なぜが4つ足歩行をして、ねころぶわたしのすぐ横をたたーっと通り抜けていった。

やっぱり4つ足歩行のほうが早く進むなあ。人間は2足歩行になっちゃったからなあ、と思ってた。。。

さまざまな生き物が行き来できるこのろうかの待合室は、よいところで、ごろ寝してもよいことになっていて、なごんだ。

しかし病院に来たはいいけど、かかりつけの先生には、前回来た時に、なんで来たの?もう来なくていいんだよ、というようなニュアンスのことを告げられていたから、また来ちゃった自分を持てあましていました。同じ科の別の先生に受診したらいいかな、とかいろいろまごまご考えてた、夢の中のわたし。

たぶん、自分としては主観的にはヘルプを求めている、でも客観的にはわたしはぜんぜんだいじょうぶなのだ、というのが、最近の現状なのだと思う。。

生き物との交流が足りてない、というのもありそうです。

仕事がたくさんあって、季節の変わり目でもあるから家の中のこともいろいろ宿題がたまっていて。焦る。。

選挙のことも気になるし(とはいっても、これまでになく落ち着いて静かに居られてるのだけど)。

自分をもう少し大切にしたいと思うようになってきました。これまでも自分勝手に生きてきちゃったのに何言ってるんだ、という感じだけれど。。。

つい最近の、世界のありようについての、ある気づきは、まさか、という気持ちで、かなり地盤がゆすぶられたみたいでした。頭が物理的にくらくらした。。。まだこのアップデートされた現実になじみきれてない感じ。

このとこあったかいお風呂がなによりの幸せです。湯船で毎回居眠り。。

posted by な at 16:29| Comment(0) | ひと であること