2017年10月12日

さじフェス2017

今月初めの連休は、岐阜・美濃市でさじフェスに参加してきました。スプーンづくり一色の3日間、濃かったです。。 :)

近年自分はすぐいっぱいいっぱいになりがちで、今回もそうだったけども、でもやぱり行けてよかったな、とじわじわ感じてるとこです。

Img_2465_2 Img_2620 Img_2534 スウェーデンから生木の木工(グリーンウッドワーク)をされるヨゲ・スンクヴィストさんが来日して、森でスプーンづくりにいい木を探すところからスタートして伐採→割って→斧ではつって→ナイフで削って、という一連のスプーンづくりの工程を見せてくださいました。そして10種類のナイフワークを教えてくださって、最終日はみんなでスプーンを削ってみました。

前にマイクさんの森の工房で、アシスタントのジョージョーさんから教わったナイフワークは、この北欧の伝統の(ヨゲさんがお父さんから受け継いだ)ナイフワークだったのでした。ジョージョーさんが教えてくれたのは確か5種類くらいだったけど、今回また別なグリップも教わって、北欧の木削りの奥深さに改めて感心しました。

ヨゲさんのお父さんのヴィッレさんは御歳92歳。あまり腕力がなくても削れるゆえに現在ヴィッレさんが多用しているという、skewとよばれるナイフグリップなども教わりました。このグリップは子女にもよいのではないかなーと思った。。

Img_2438ヨゲさんのつくるスプーンは、ひとつとして同じものがない、とのことでした。それというのも、材によってデザインが影響を受けるから。その材がどんなふうになりたがっているか、によって違うふうになっていくのでした。木目、木の繊維をなるべく断ち切らないことで強度と軽さを両立させていく木取りのしかた、ほんとーうに好きです。木と人のコラボレーションのような。。。そしてスウェーデンの民具の伝統的デザインに影響を受けているカラフルでかわいい彫り模様も、めちゃくちゃすてきです。

スウェーデンのslöjdとよばれる木工の伝統は、そもそも、生活の中で必要な道具を身の回りの木々から手作りしてきた伝統で、なんとういか、かつてはふつうにみんながやっていたことのようでした。

ヨゲさんのお父さん、ヴィッレさんが木削りにのめり込んでいったきっかけもとってもおもしろかったのだけど、木削りが生活するうえでのたしなみのようなものだったからこそなのか、ヴィッレさんが家の中で木削りをして木くずを散らかしても、ヴィッレさんのお母さんは一度も文句を言ったことがなかったそう。

そんな連綿と続くslöjdの伝統から、ヨゲさんがもっと自由になって、ものづくりをもっと独自に展開するきっかけになったという、9歳の娘さんとのエピソードもすてきでした。

* * *

さじフェス2日目には日本のスプーン・杓子づくりの職人さんたちお三方の講演と実演もあって、すごかった。。三人三様で、とても興味深かったです。職人魂にぶっとばされ、はるか遠くにとばされすぎて、「自分はこんなとこに来ちゃいけなかったかも」という場違い感にさいなまれもしたけれど。。。そんなすったもんだしつつも、持ち帰れるインスピレーションはたくさんいただけました :)

Img_2588 日本古来の生木の木工、有道杓子づくりを継承されてる奥井京介さんが、杓子の材料にされてる朴の木との関わりをなんというかホリスティックにお話しくださったのが、今でも印象に残っています。

秋になって朴の木の大きな葉っぱが落ちると、地元のおばあちゃんたちはそれを拾って、水に浸けるんだそうです。そして朴葉みそなどに使われる。

朴の木の特質と飛騨地方の気候を踏まえて、奥井さんは杓子づくりは冬のあいだだけするそうです。(今回秋に杓子づくりの実演をしたのは、そういう意味では異例だったんだなあ。。)

地元の方々の生活の中に、四季のめぐりの中に、朴の木と、朴の木を使ったものづくりが位置づけられていることが、妙にうれしかったです。

* * *

Img_2615 Img_2622 S__8069128_xlarge 2日目夜から相方が合流して、一緒にスウェーデン風のスプーンづくりを体験しました。スウェーデンではバーチをよく使うとヨゲさんはおっしゃってましたが、今回は生木の朴の木で。

初めての斧でのはつりに挑戦しました(ナタと斧のチョイスがあったのだけど、その前の工程で出遅れて、道具を取りに行ったら斧しか余ってなかった汗)。めちゃくちゃ四苦八苦したし、いつものごとく作業が遅くて焦ったりしたけど、でも斧使いのコツを教わって、少し思うように扱えたときには、楽しいな!って実感も来ました。でも、基本ずっと、わーっとなってました。。。

相方はとにかく楽しかったらしくて、そして自分のスプーンをすごく気に入ってるみたいで、なんか、それがなによりだなあって思いました :)

Image_xlarge Img_2661 Img_2665 二人とも時間内に完成するとこには行かず。。フェス最終日の翌日はふたりでちょこっと河原で続きをしてみました。せせらぎの音を聞きつつのナイフ作業、楽しかった!まだ終わらなかったけど。。

日本初のさじフェスを企画、オーガナイズしてくださった森林文化アカデミーの久津輪さん、グリーンウッドワーク研究所の加藤さん、アカデミーの学生さんたちには、ほんとにお世話になりました、ありがとうございました。グリーンウッドワークのお仲間のみなさんにも久しぶりに再会できてとっても嬉しかったです :)

Img_2565 物販もかなり充実してたのです(ただ自分に心のゆとりがなさすぎて(汗)あああ。。。。。)

夜の懇親会では大好きな五平餅の作りたて焼きたてをたくさんいただけたり(ナッツの自家製タレが最高でした!)、美濃の豪華郷土料理をふるまっていただいり(みんなおいしかった、こんにゃくが特に最高でした!)、休み時間にはハンモックで寝てみたりできたのも、すてきでした。

* * *

Img_2540 Img_2544 余談。ハンモック寝に関しては、なかなかおかしかったのでした。

今回テント泊でなくコテージ泊にしましたが、せっかくなのでハンモックと寝袋、シュラフカバー、エアマットだけ持参して、1人で泊まる一泊目は初めてのハンモック泊をしてみようと思い立ちました。

雨の予報はなかったけど、念のため、東屋のようなとこにハンモックを吊りました。前夜は夜行バス泊であまり寝てなかったので、わりと早めの時間に寝袋にエアマットを仕込んでハンモックにイン。寒いと思ってかなり厚着をして、万全に。。そしたら暑すぎた^^;

前日まで寒かったのに急にあたたかくなったのでした。あついなーと思いつつ、しばらくいたら、蚊がやってきて。。ぶんぶん周りを飛ばれて、顔をさされたので顔をシュラフカバーで軽く覆って、全身覆われたかたちで少し寝ました。

ときおり、コトンと、どんぐりの実が木から落っこちてきて音を立てていました。あとは木々のさやぐ音。ハンモック寝に慣れないうちは少し窮屈に思ったけど、ふっと体がゆるんだときがあって、そしたら逆にすごく楽になって、寝返りの必要を感じないくらい快適な体感がきました。これは意外でした。

しかしやっぱり暑くて、しばらくして寝袋の中でウールの靴下を脱ぎ、それからシュラフカバーをはいで、上半身を寝袋から出してみたら、ハンモック越しに微風が気持ちよかった。向こうの山々の気配も。

で、なぜか、「もう蚊に刺される気がしないぞ」という万能感が来て、そのまま寝ました。

そして。。夜中1時前くらいだったかな、痒みで目覚めました。あの万能感はなんだったんだ^^;

で、二連夜寝不足はさすがにまずいので、大人しくコテージの部屋に撤退しました。。。

この季節、もう蚊はいないと思ってたけど残念でした。もすこし寒くなったら、またやってみたいですー。

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posted by な at 21:48| Comment(0) |

2017年04月11日

軽い手荷物の旅

20170410_16_45_23_1ここらへんでは桜が満開なこの頃。でも今日はまた2月くらいの寒さがぶり返し。。雨の中、風もあって、レインポンチョを着て長靴をはいて傘をさして歩いたけど、なかなか大変でした。

でも見上げると、満開の桜は雨にも風にも負けてなかった。すごいなーと思いました。足元の道草は、むしろ雨を受けて活き活きとしている感じで、どこかうれしそうでした。

わたしも最初はレインポンチョと長靴があれば雨も楽しいねえ♫と歩きだしたのだけど、風にあおられて途中からはひょえーとなって。。。パン屋さんに寄ってきてほしい、と言われていたのに、雨風に負けました。かわりに帰宅してから久しぶりにパン焼き。。。相方はめちゃくちゃにロシアの黒パンが好きなので、北欧の黒パンです。

20170411_20_00_01_1 めちゃくちゃ簡単な、黒パンミックスに水を入れて混ぜてやくだけ、というもの。イケアさんのです。焼き時間が1時間(!)というのにおののいて、ずっと実行できずにいたけど、今日のような寒い日は、オーブンを使うと暖房がわりに部屋もあたたまるし、よい!と思って決行しました。

パンだけ焼いておくのはもったいないので、オーブン料理も。。と思って、あるものでできるスウェーデン料理「ヤンソンさんの誘惑」(アンチョビ入りポテトグラタン)もつくりました。

そんなわけで、今夜はにわかにスウェーデン祭り。

黒パンミックスは、焼き時間が長いのがアレだけど、なかなかよいです :)

* * *

さて、先月の旅の話について。。もうすこし。今回自分としてもたいぶん新たな試みをした旅だったのでした。それは、「軽い手荷物の旅」にすること。

Img_0499_2回は7泊8日の旅だったけれど、19リットルの小さなソフトキャリーで行きました。相方は背中に背負えるタイプの40リットルのダッフルバッグ。

「軽い手荷物の旅」をすることになったきっかけは、どこまで行っても一律で2ドル50セントという、オアフ島のザ・バスという公営バスに乗って、島の反対側のノースショアに行けたらいいな、と思ったことでした。タクシーだと80−90ドルの移動になるし、バスにのって高さのある大きい窓からのんびり風景を見つつ移動するのが大好きだしで。。。。ただ、このバス、ハワイ島のバスと違って、大きい荷物を持って乗れない決まりがありました。大きさはひざに載せられるものまで、となっていて、飛行機の機内持ち込みサイズが最大限度のようでした。

それでいろいろ悩んだけれど、ほんとうに必要なものに絞って荷造りしてみたら、19リットルのかばんで行けてしまいました。我ながらこんなに軽い手荷物の連泊旅は生涯でも初めてで、不安もあったけど、やってみたら、すーごく快適でした。Img_0476_2

荷物が少ないって、そのままフリーダムに直結するんですね!

0135_xlarge 相方も自分のダッフルを背負うのは問題なかったみたいだけど、キャリーケースの上に載せて運んであげたら喜ばれました(写真の図)。

uber(民間ライドシェア)のドライバーの方にも「あなたたち、荷物それだけ?」とびっくりされたり。。。

* * *

19リットルのソフトキャリーは、相方が以前買ってあまり使わずにいた無印良品のソフトキャリー(小)です。1泊2日程度の旅行用に、というものらしく、さすがにきついかなーと思ったけど、大丈夫でした。

キャスターにストッパーが付いていないのが残念ポイントだけど、鍵をつけられるようなファスナーになっているし、ソフトなのでいざとなったら結構パンパンに詰めることもできるし、なかなかよかったです。

Img_0497 これに、相方の荷物を上に固定するために、アウトドア用ゴムという4mm径の丈夫なゴムを二重にぐるっと巻きつけて使いました(上部のハンドルと並行するように巻いてある黒いゴム紐です)。

ハンドルバーを上げて、相方のダッフルをのせたら、この輪っか状のゴム紐をダッフルの前に渡してハンドルバーにかけるだけ(下側は車輪のところで紐がひっかかるようになります)。

ちょっとしたものを挟んでひっかけておくこともできるので、重宝しました。

相方のダッフルは、オスプレーのパッカブルダッフル、トランスポーター40で、これも軽くてコンパクトなのに容量は40リットルで、背負いやすいし、ぱかっと開いて中身も取り出しやすくて、グッドチョイスでした。

わたしは無印のソフトキャリーに、あとは、昔手づくりした布のショルダーバッグと、ショルダータイプのエコバッグ(布ショルダーの雨よけ用)を持っていきました。それで帰りのおみやげも、出国前・帰国後の防寒着も、不自由なく持ち運べました。

20170407_16_49_28 布のショルダーバッグは、10年以上前に、セールになっていたランチョンマット2枚とコースター2枚、それから使い古しの自分の革ベルトで自作したものです。

20170407_16_50_32_2 基本的にただの袋状のバッグだけど、背面にコースターをくっつけてポケット状にしたので、ちょっとしたものを入れるのに便利です。

布かばんは軽くて、必要ならたくさんものが入れられて、いいです :)

* * *

Img_0056 それと、荷物の軽量化の一環で、今回初導入したのが、ワラーチ(走れるサンダル)です。わたしはランニングなどはしないのだけど、つくりがシンプルで、ソールが薄くて地面を感じられそうで、軽そうで、解放感がありそうなワラーチが前から気になっていました。それにワラーチなら薄いソールに紐がついただけだから、ぺたんこになって持ち運びにもかさばらないし軽量です。

ただ今回は、ビブラムソールを買って一から自分でつくる時間的余裕がなかったので、メルカリで手づくりワラーチを販売されている方から、シンプルなゴム紐タイプのものを購入しました。

でも若いころから、アキレスけんを圧迫するタイプのサンダルや靴が身体に合わなかったので、ゴム紐タイプのワラーチも、少し家で試し履きをしてみたところ、やっぱりむずかしかったことが判明。。。

急きょ、切り売りの真田紐を3m取り寄せて、付け替えてみました。はなおを手持ちのやわらかい革でつくってみました。そしたらこれが、すごく具合がよくって、あまりの快適さに、街も、海も、谷も、旅のあいだずっとワラーチで過ごしたほどです(行きと帰りの飛行機は、軽量スリッポンを履きました)。

ビーサンを別途持っていくべきか迷ったけれど、海ではシュノーケルをしたくてマリンソックスを持参したので、結局ワラーチで浜まで行って、浜についたらマリンソックスに履き替えておしまいでした。

0067_xlarge 足首にくるっとまきつけると足の一部になる感覚なので、谷を歩いたときも快適。地面の感触が分かるのもグー。コンクリの街ではさすがに、この薄いソールだと腰に来るかな、と思ったけど、意外と大丈夫でした。ビブラムソール、やってくれます。。。

脱ぎ履きも、おもったほど面倒ではなかったし、見た目も悪くないし。。。(おしゃれさんな姪っ子にも、かわいいサンダル、と言ってもらえたり)、開放感が半端なく気持ちいいし、持ち運びもぜんぜんかさばらないし、なにせ軽いし。。。言うことなしです。ワラーチづくりの元祖、メキシコのタラウマラ族のみなさまに、感謝しています。

夏の旅はワラーチに限る、と確信しました。あ、でも今回雨に合わなかったから、というのもあるかな。雨のときはどうなるか、試してみないといけません。

* * *

最小限とはいっても、細々としたものは色々と持参しました。

Img_0496 写真が(行き帰りに着てた服を覗く)全携行品です。

上段左から:薄手の長袖パーカー(折りたたみ式)。ストレッチシルクの大判ショール(防寒用。はおりものがわりにも。布屋さんで切り売りしてもらったのを、そのまま切りっぱなしでもう何年も愛用しています)。海水浴用帽子(かぶったまま水に入れて頭の日焼けを防げます)。麻混の日よけ帽。

2段目左から:ふでばこ。ワラーチの予備の替え紐(使わず)。日記帳。ワラーチ。マリンソックス、水着にもなるショートパンツ。水中メガネ、水着上下、長袖ラッシュガード。水中用スマホ携帯ケース(これは水が入っちゃった!スマホ入れずお札だけ入れて使用)。速乾ハンドタオル。カットソー生地の水色のロングスカート(飛行機に乗る前にこれに着替えると楽でした、あとビーチでの着替えにも便利だったり)。黄色い仕分けケースの中はその他の着替え(タンクトップ、半袖ブラウス、長袖シャツ、ビーチ用ポンチョ、パジャマ、下着、靴下類)。

3段目左から:髪留め(櫛を兼ねた)。水筒。コラプシブルタッパー(外食時のテイクアウト用)。携帯用お箸とスプーンフォーク。マヤナッツパウダー。携帯用はちみつ。充電コードセット。ソーラー式にもなるモバイルバッテリ。イヤフォン。ターコイズのネックレス(お祝いの食事の席用)。洗濯洗剤と洗濯ネット。虫よけスプレー。日焼け止め。シャンプー。かみそり。保湿クリーム。スティック状の日焼け止め(向こうで購入しました、便利でした)。薬類(レメディ、フラワーエッセンス、レスキュークリーム)。絆創膏セット(湿式・乾式両方)とマダニ取り具(山歩きなどのときのために)。レスキューチューインガム。レインポンチョ。

3段目左から:ティッシュ、バンダナ、手ぬぐい。布のショルダーバッグと折りたたみ式のショルダーエコバッグ。貴重品用ポシェット(お財布、パスポート、ボールペン、リップクリーム入り)。洗面用具ポーチ(歯ブラシセット、手鏡、耳かき、口紅、クリームなど)。布製マスクとウェットティッシュのポーチ。首枕。折りたたみ式ダウンブランケット(飛行機の中での寒さ対策、使わず)。折りたたみ傘。

あとは珈琲のドリップパック(向こうで飲んだり、おみやげにあげたり)と、モンベルの圧縮袋(使わなかった)、マヤナッツクッキー(旅のあいだのおやつ)も持参していました。レンタルwifi機器も。夜行バスでもらった不織布のスリッパも2人分持参してました(使い倒して帰り道にさよならしました)。

キャンプしないと、こんなに軽い手荷物の旅が可能なんだなあと開眼した次第です。旅先が夏の気候だからできることだと思うけれど。。

行き帰りの飛行機も機内に全部持ち込めて楽でした(そのかわりナイフは持っていけなかった)。

この小さいかばん1つ分の荷物で不自由なく日々を過ごせてしまうんだな、というのは、ちょっと感慨深いです。

今までは「念のため」と、すごくたくさんのものをいつも持って旅をしていました。今回は「持っていくかどうか迷ったら置いていく」というのを基本方針にしました。いさぎよさが必要だったけど、それだけのごほうびがあったように感じています。

どうせ非日常のなかで過ごすのだから、身の周りの品がいつもどおりに整っていなくても、そこまで気にならない、といのはあるかも。。?

Img_0445 念願のザ・バスにも乗れたし。。旅は身軽にかぎる、です :)

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posted by な at 21:51| Comment(0) |

2017年04月07日

Alohaの伝統とハワイアン航空

当事者でないと、やっぱりわからないこと、というのが圧倒的にあるということを思う今夜です。わかりあいたい、わかりあえるはず、という夢もあるからこそ、がっかりするけど、でもまずはこれを認めるところから、はじめないとなんだなあ、と。。。

いろんなことを思って、心にいろんな波が立つけど。

ぜんぶわかりあえるわけではなくても、わかりあおうとするっていう方向へ向かうことはできて、それがきっと尊いことなんだろうな、と思う。

* * *

ハワイのお話の続きです。ハワイアン航空の帰りのフライトは、時差ぼけ対策でなるべくずっと起きていることがポイントだったので、映画や特集番組を見まくったのだけど、すばらしいことにすべてハワイ関連のコンテンツだけを見ているうちに着陸時間がやってきました。

映画は40数本から選べたのだけど、選択画面で出てくる画像だけを見て「これだ」と選んだ2本は、どちらも全然知らない映画だったけど、オアフ島が舞台の映画でした。

1本目は『ハウマーナ』という、男性のフラダンサーについての映画。ワイキキで観光客向けのショーの歌手をしていた男性が、子どもの頃からやっていたフラにひょんなことから向き合い直すことになって、紆余曲折を経てクムフラ(フラの師範)になる方向へと人生が切り替わって行っていく、というお話。

ハワイを題材にしたハリウッド映画かしらん、と思って見始めたけど、ハワイアンの人にとってフラを踊るとはどういうことなのかを、丁寧に伝えようとしていて、これはハワイの人が撮った映画かも、と途中で思い始めました。(※「ハワイの人」とは、民族的にネイティブハワイアンの人というだけの意味ではない、もっと広い意味でのローカルの人のことです。ハワイの人は民族的にいえばハーフ、クォーターよりももっとたくさんの混血であることが普通みたいだし、ハワイに生まれたり育ったり長く暮らしたりした人はみんなこの地の人なんだ、と今回実感したのでした)。

映画の途中、主人公率いる男子学生フラグループが出場するフラの大会のシーンがあって、その大会の様子を描写しているところで、ソロで踊る男性が出てくるんだけど、後でエンドロールを見ていたら、その踊り手を演じていたのが監督さんでした。なのでひょっとしてこれは監督自身の自伝的なお話?と思って、後で調べたら、生まれも育ちもハワイのケオ・ウールフォード監督がこの作品の脚本も書いていました。

監督自身のプロフィールを見たら、かつてBrownskinsというハワイのボーイズバンドのメンバーで、後に俳優に転じて映画や舞台、テレビで国際的にも活躍されていました。そして同時にフラの修行も積んでいたんだそう。

そしてクムフラ(フラの師範という意味の言葉だけど、伝統的フラの正統な継承者・指導者を指す位らしい)に去年の夏なられていて、そのあと11月に脳卒中で他界されていたと知りました。

監督のこの作品は、フラが単なる踊りではなくて、生き方そのものだということがよくわかる映画でした。文字を持たなかったハワイアンにとっては、古くからの叡智や価値体系の伝達手段であって、神々との交信手段でもあったんだ。。。

そしてクムフラになるということの、責任の重さも、伝わってきました。そういえば、今回の旅の間、家族のみんなと観光船にのって川下りに参加したときがあったのだけど、そのとき船上でライブ音楽とフラのパフォーマンスがちょびっとだけありました。そのダンサーの方とミュージシャンと一緒に、下船して、滝まで歩いて、また船に乗って帰ってくる、というコースだったのだけど、滝から船に戻るときに、わたしだけ皆に遅れてしまって、たまたまダンサーの方と2人だけで少しの間歩くことになりました。

0005_xlarge とてもきれいな方なので、どきまぎしましたが、「ダンス、とてもすできでした。長く踊っていらっしゃるんですか?」と話しかけてみたら、「5歳のときからです、だから45年」と。なるほど見事なダンスなはずだーと思って、「もしかしてクムフラでいらっしゃいますか?」と聞いたら、「いや、ちがいますよ!クムフラは責任が重すぎて、片手間でできるものじゃあ、ありません」とおっしゃって、それが印象に残りました。

クムフラは無償でやる仕事だ、とどこかで読んだのも思い出しました。みんながみんなそうなのかどうかわからないけれど。生徒たちにしっかりと伝統を受け継いでもらうには、実際大変な責任を伴うみたいです。

イプという大きなひょうたんのたいこをたたいてチャントをうたう、クムフラ。

ノースショアのワイメア渓谷で出会った小学生の一団が木々の下で踊ったときも、そういえば、方隅にイプを手にして地面に座っていた女性がいました。彼女の掛け声のもと、子どもたちはまず大きな声でチャントを唱えながら4つの方角を向いて、それから踊りだしたのでした。Img_0311

遠くから見てたけど、みんなの真剣さがわかりました。

* * *

もう1本、飛行機の中で見た映画が『ザ・ライド』です。こちらはサーフ映画とおぼしき映画だったので、軽い気持ちで見始めたのだけど、ハワイの英雄であり伝説のサーファー(&水泳選手)、デューク・カハナモクへのトリビュート映画でした!

『ハウマーナ』同様、ハワイ出身の監督(ネイザン・クロサワさん)が手掛けた映画で、『ハウマーナ』同様、役者として活躍していたわけではなかったハワイ出身者を大勢キャスティングしていました。「リアルな人と、リアルな場所で」この映画をつくることを旨としたそうです。

この映画、サーフィンというスポーツの原点をたどれる映画です。そしてそもそもサーフィンが生活の一部だった、1911年当時のハワイの人たちのあり方。。。ハワイの伝統や価値観も、ひしひしと伝わってきます。デューク・カハナモク役の方の存在感のジェントルさは、ほんとうにすてきでした。「板に乗るんじゃない。波に乗るんだよ」というデュークの名言も。

* * *

ハワイざんまいのインフライト・プログラムで、映画の他にはハワイのトランスジェンダーの方についてのドキュメンタリー番組も見ました。

男女両方のスピリットを持つ人(トランスジェンダーの人)は、古代ハワイでは「Mahu」と呼ばれて、ケアテイカー、ヒーラー、古くからの伝統、聖なる知恵をフラやチャントを通じて伝える教師として尊敬されていたんだそう。

見たのは現代のトランス(FTM)の小学生ホオナニさんについての25分版番組で『A Place in the Middle』というタイトル。実は77分版のドキュメンタリー映画の部分を再構成したものらしいと後でわかりました。長編のほうは、『Kumu Hina』というタイトルで、ホオナニさんの学校で先生をしているトランス(MTF)の先生、Kumu Hina(ヒナ先生)が中心の内容。長編のほうも見たいな。。。

25分版のほうは、ほんとうのAlohaのスピリット(お互いを尊重しあって調和の中に生きること)を考えるための教材として、ハワイの学校で使われたりしているみたいです。Youtubeでも見られます(ちょっと不完全だけど、日本語の機械翻訳字幕を表示することも可能です)。

ヒナ先生も、ホオナニさんも、唄が、チャントが、うまい。。! ホオナニさんはウクレレもすごくうまい。。。

チャントがうたえることが、伝統を受け継ぐことの大きな部分を占めていることを、改めて思った次第です。

それと、ヒナ先生が11歳のホオナニさんに「わたしはあなたが男子の列に入りたいのがわかっているし、入ってもらってOKだけど、他の人は、あなたが女子の列に入るのが当然と思ったりするかもしれない。そんなとき……若いうちはね、ただ流れに任せるのよ。わたしくらいの年齢になったら、もう他の誰かのために動かなくてもよくなるからね」と諭していたのが印象的でした。

「さいしょはがまんをしなくちゃいけないけど、いずれは他の誰かのために動かなくてもよくなる」というのが、ハワイの伝統文化のたどった道と重なるようにも思えました。

* * *

インフライトプログラムには、私と相方の憧れのかたまりである、ハワイの双胴カヌー、ホクレア号についての番組もありました。ポリネシアの伝統航海術の継承者、ナイノア・トンプソンさんのお話も聴けて、すごくよかったです。

今ホクレア号は世界一周航海の真っ最中。番組では、ホクレア号が寄港した先での様子をドキュメントしていました。

ホクレア号のはじまりに関する映像は、オアフ島滞在中に行ったビショップ・ミュージアムのプラネタリウム番組「Wayfinder」でもじっくりと拝見することができて、至福でした。(短いバージョンだけどみられるが動画がありました↓)。

Wayfinders: Waves, Winds, and Stars (Fulldome Preview) from Daniel R. Rogers on Vimeo.

ビショップ・ミュージアムのプラネタリウムは、ナイノアさんが伝統航海術を学ぶ過程で、星空を勉強するために通い詰めた場所だったんだそうです。

長編のほうでは星の航海術の一端をバーチャル体験できるしかけもあって、星をつかって東と西を見極める方法も教わりました。ホクレア号の名前の由来は、ホク・レア(ハワイ語で喜びの星)と呼ばれる星、アークトゥルス。このアークトゥルスとスピカが水平線近くにあるときに、2つの星を結んだ中間点が真東になる、んだったと思う(記憶が正しければ)。西も同じように2つの星を結んだ中間点だったんだけど、どの星だったか思い出せない……。

それにしても星がわかれば方角も緯度もわかるってすごいな。地図が頭上に広がっているようなものだなんて。。。

星が見えないときでも、潮の流れや波、風、鳥などでナビゲートしていくのが伝統航海術なんだそうです。

この伝統航海術をハワイに蘇らせることになったきっかけとなった人は、実はミクロネシアのサタワル島のマウ・ピアルグさん。伝統航海術を受け継いでいた人でした。ハワイでホクレア号が完成したとき、ハワイには航海術がわかる人がいなくて、1976年にマウさんがホクレア号をハワイからタヒチまで、機械類を使用せずにナビゲートしてみせたのでした。これを見て感動したナイノアさんが、マウさんに弟子入りして、ハワイに伝統航海術が蘇ったのでした。

そういえば。。。ビショップミュージアムへ行くのにuberという民間タクシーを使ったのだけど、そのドライバーの方がミクロネシアのコスラエ島出身の方で、ホクレア号の話になったときに「うちの国の人が伝統航海術をホクレアの人に教えたんだよ」と誇らしげに言っていました。サタワル島とコスラエ島は同じミクロネシア連邦に属する島。「彼はもう亡くなったけど、彼の子孫に、伝統航海術は伝わっているよ」と言っていました。運転手さん自身も海軍に入るためにオアフ島に越してくるまでは、生活の一部としてカヌーに乗っていたそうです。

* * *

ホクレア号はハワイの伝統文化とアイデンティティを取り戻す動きのきっかけをつくったけれど、今はもっと先へと歩みを進めている、と今回実感しました。

オセアニアの海域からこんどは世界一周航海へと出発することになった2014年に、ナイノアさんがおっしゃった言葉。泣けた。

「この航海は……自分たちのためにするのではありません。3年間旅に出るのは、地理や国家、民族によって定義されるのではない文化を見つけるため。この地球上に出現する必要がある新しい文化、全人類に関わる文化です。その核心にあるもの、その文化を定義するものとは、価値観です。”富”の新しい定義、それは、貯めたり自分たちのものにしたりできるもののことではありません。”富”の新しい定義、それは、みんなに贈れるもののこと。私たちはそう信じているし、そのために航海するのです。」

ホクレア号は現在世界一周の終わりに近づいていて、ラパ・ヌイからタヒチに向かう途中。4月中旬にタヒチに到着予定です。そこからハワイへと帰路につき、2017年6月にハワイに帰って来ることになっています。現在位置などのリアルタイム情報はPolynesian Voyaging Societyのサイトから見られます。

サイトを見てわかったんだけど、Mālama Honuaと名づけらたこの世界一周航海の公式スポンサーがハワイアン航空でした。ハワイアン航空はベジメニューがないという残念ポイントもあったけど、それを上回るすてきさがあるな!

Mālama Honuaとは、シンプルに訳すと「この地球という島のお世話をすること」という意味なんだけれど、ハワイ語の意味合いとしては、「この世界を構成しているあらゆるもの、大地、海、生き物、文化、コミュニティを大切にして守ること」なんだそうです。

Aloha。。

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posted by な at 03:18| Comment(0) |