2014年05月25日

星々の運動

20140513_133648 ふだんの自分では考えられないような冒険をしつづけていたこの3カ月。

ここ何日かは、まつりの後って感じで、腑抜けています。

やる気さく裂しすぎというか。。。いや、本人のやる気はそこまでついていってないのに、事のめぐりがどんどん進んで、いろんなことが一気に押し寄せてくる感じでした。

自分にとって「3大やりたいこと」がだんごになってやってきたのには、ほんとうにびっくりしたし、「行きたいなあ、いつか」と夢の次元で思っていた場所に、あれよあれよと行けてしまったこともおどろきだった。

夢がすごい勢いで叶ってるのに、その渦中では神経が極限まで試されてるような感じで……うれしさを味わうヒマもないというか、なにがなんだかよくわからんようなふうでした。(でも立ち停まってふりかえると、やっぱり、楽しかったな、よかったな、と思ってもいるんだけど。)

同時に、人間関係でもいくつかパワフルな痛手を受けたりしていて、自分の感情との距離感も、すごく変わってしまったと感じられて、動揺したり。同時に仕事もめちゃくちゃたくさん押し寄せてきてた。。。

ここ数日で、怒涛の日々がようやっと、ひと息ついた感じで、ふと、占星術的なところへひさしぶりに目をむけたら、3月2日から火星が逆行していたのが、今月20日に巡行にもどったらしいことを発見。木星が3月7日に巡行に戻っていたらしいことも発見。

(ついでに、星の逆行は、逆行したあとすぐと、順行に戻るときが一番影響を受けやすく混乱しがち、なのだという説も見つけました。)

火星の逆行は、やる気の部分で過剰になったりから回りしたり、まったくやる気がうせたり、恋愛面で過剰な炎が上がるなどの出方をするらしかったし、今回の火星はてんびん座にいるので、1対1の関係性においてひともんちゃくあってもおかしくない、ということだったもよう。一方、木星はいわゆる幸運の贈り手。。。

なんだー。。。これを先に知っておきたかった。。。と、いまさらながら。

天秤座の火星、ということは、やぎ座の自分にとっては、角度的にも、特に影響を受けやすかったらしかった。

精神の天気予報として、星読み情報は定期的にチェックしておかないとだなあ。。。と改めて思った次第。

* * *

20140327_155528 で、ここ数日、しみじみと思う。。。過剰にどこかの極に傾いていく動きも、これ、自然の動きの一部。

傾きすぎたときに、そこにハマって固まってしまいさえしなければ(傾いたとこにいることが習慣化したりしなければ)、傾きはまたバランスよいところへ向かって修正され始めるはず。。。

一時的に大きく傾くことには、それなりの意味があるんだろう、ということ。。。季節がめぐるように。

アレクサンダー・テクニークも、野口整体も、どこかの極への過剰な傾き=こだわりを、ほどよいバランスのところへ戻すのにいいツールなんだと改めて思った。

「アクティブにやりすぎ」「働きかけすぎ」に気づいたら、もっと「しないこと」「ありのままを受け止めること」「ただ在ること」の方向を思っていってみる。

「自分」へのこだわりが強まりすぎてることに気づいたら、もっとまわりの空間や世界を意識に含めていってみる。

脊椎を縮めて自分を小さくする傾向に気づいたら、もっと長くのびのびと使うことを意識に含めてみる。

そうすることが、傾いていこうとする方向性をundoする、というだけのことで。過剰さ、傾きすぎをおさえるのために何を思うかの内容自体は、今どう傾きがちなのか、という気づきをベースに導き出されることで、誰にでもいつでも通用する普遍的ノウハウなんかではないということ。。。(広く他者と共通するものとか時間的歴史的に長いスパンであるがゆえに「普遍的」に見えるのものも、あるとは思うけれど)。

野口整体では風邪ひくことが偏り修正に一役買うことを承知の上で、風邪をウエルカムする。体調の変動があることを、問題視しないで、むしろウエルカムして、活用していくという発想。

望むらくは、そこからどこの極のほうへも軽やかに動き出せてさまざまな局面を体験していける「ニュートラルな場所」へ、戻っていくための動きが、しなやかであること。。。

その時々に、いろんな方向へ偏ったりこだわったりしつつ、常に動きがあって、その中でちょくちょくニュートラルな場所を通過していれたらいいな。どこか1つの”完成された”状態などがあるわけないのは(あったとしても一瞬でまた移り変わるのは)、星々の配置と同じ。

20140417_231211動きながら、さまざまな局面を体験していくことが、究極的には「自然」なのじゃないかな、と思われる。。。占星術のチャートでも、さまざまな局面を探索・体験していけるように、星々は12ある部屋をまんべんなく、くるくるとめぐりつづけるんじゃないだろか。

どこかの体験を「よい」と決めつけてそこに自分をフィックスしてしまうのは、たぶんよくやってること、わたし自身。渦中では気づきにくいし、「よい」と思ってるんだから疑いもしない。。。でも「よい」と思うことについてさえも、多少のゆとりをもたせておけるようでありたいな。

「よい」と思うものを他者にすすめようとするとき、広めようとするとき、もしくは求めようとするときは、特に。

「神さま」や「愛」や「平和」や「命」でさえも、なにごとにも、他者に平然と押し付けていいような「絶対」の価値はないと、思うこの頃。しなやかさ=動きの自由さ=自然の運動の中に、命や愛や平和いや神さまが宿ってるように、思えてる。物理的な動きも、目に見えない動きも、心の動きも含め。。。

まあ、運動も、自由も、行きすぎると自然から離れてしまうのだけど。。(自由が行き過ぎたら、一定の軸や骨組みのほうへ想いを向かわせていくフェーズへ。。。)

posted by な at 23:27| Comment(0) | ねがいごと

2014年02月14日

対話へ、

Img_6280 最近、二羽のメジロが、「猫の額庭」に吊り下げた「小鳥のお風呂」に入りにきます。写真ではお風呂に入る一羽が映ってますが、わかるかな?

東京都知事選挙が終わって、とても濃密な日々が過ぎて、今すこし、ぼーっとしています。

宇都宮けんじさんを応援をする中で、ほんとうにいろんなことがあって、みぞおちの中がぐちゃぐちゃにかきまわされたようになっていた日々もあったし、とても満ち足りた幸せを感じたこともありました。一生懸命考えたし、たくさんの気づきがありました。

そして先週の日曜に選挙の結果が出て、自分の中からさまざまな想いが出てきたのだけど、そのなかでも大きかったのは「もっともっと、話を聞きたい、話を聞かせてほしい人たちがいる」ということでした。

この世界は、ほんとうに、ひとりひとりにとって違うんだなあと、痛感しました。それぞれの人にとって、この世界がどんなところなのかは、ひとりひとりが見てきたもの、体験してきたものによっても変わってくる……。

宇都宮さんにとって、選挙は「人権のための運動」の一環だったのでした。投票日までの期間中、宇都宮さんは、自分の選挙運動の場を通して、さまざまな人の声をみんなに届けようとされていました。福島の原発事故の被災者の方、東京生まれの在日朝鮮人の方、筑地市場で働きながら市場の移転反対運動をしている方、小さなお子さんを持つお母さん方、セクシャルマイノリティーのカップルなどなど……。

それぞれの人に、それぞれの視点があって、それぞれの想いや苦悩や希望がありました。そうした声が、ふだん届かないような多くの人に届いた、そのことがとても心に残りました。

Img_6177 そして多くの人、「ふつう」の若者たちが、それぞれに思っていることを「自分の言葉で話す」ということを始めたことも。お互いにていねいに対話する、ということが大切にされ始めたことも。

そういう意味で、この選挙には、ほんとうに元気づけられました。

* * *

同じことが、人間と人間以外の存在のあいだでも、起きたなら……。それが、さらにもうひとまわり大きな願いとして、自分の中にあります。

わたしの本職は、人間の言葉(日本と英語)の通訳や翻訳ですが、心の中でずっと望んできたのは、人間以外の存在の声を聞くことでした。

311の震災後、特にこの願いが強まって、具体的な一歩踏み出そうとしてみたものの、逡巡が多くて、なかなか勇気も出ないまま、「願い」だけを抱えてきました。

でももう少し、願いを地上にアースしたいと思って、小さい扉を開けてみることにしました。

異種間コミュニケーションの練習帳」という場を開いてみました。ここからなにがどうなるのか、なにか芽が出るのかどうかも、まだぜんぜんわかりませんが……。ちょこっとした、きっかけになれば、と思っています。

今後ともよろしくお願いしマウス :)

posted by な at 00:38| Comment(0) | ねがいごと

2013年08月05日

ビジョンの大きさと、3人のインディアン

20130805_121059 今日はひさびさのお休み日。自由な一日。今年最初のトマトが赤くなってるのに気づきました。そしてその向こうの庭に、とつぜん、ミニミニのティーピィー(インディアンのテント)が出現していました。木工アトリエをしているおとなりさんのところに夏休みで来ている子供たちが作ったものらしい。

ティーピーは丸いとんがりテント。かつて一族が野営するときには、これがたくさん、輪を描くように丸く並んだそうです。『ブラック・エルクは語る』という本に、そうありました。丸いものには力が宿るとのこと。ブラック・エルクは後年住まうことになった西洋文明の「四角い家」について「円と違ってよい気がめぐらない」と言っていました。

『ブラック・エルクは語る』という本は、1930〜31年に、ネイティブ・アメリカンのスー族の老人ブラック・エルクが、白人的教育を受けた自分の息子を通訳に、白人の詩人ジョン・ナイハルトに語って聞かせた彼の生涯の記録です。

ブラック・エルクは誰にでもこうした話をした人ではなく、人生の終わりにこの詩人が「昔のことを語り合いたい」と訪れたとき、この人に語ることにしたのは、「自分の見たヴィジョンをこの世に残す」のが目的だったのであって、それは「ぜひとも果たさなければならない義務のように感じていた」ことだったらしい。

本には、ブラック・エルクの生涯が具体的な史実のディテールとともに収録されています。が、中でも特に、9歳の夏に彼が得たビジョンの部分はパワフルで、本を読み終わっても、まだ本を図書館に返せずに、そのヴィジョンの部分を読み返しています。

特に気になるのが、「赤い杖」と「白い杖」のこと。ブラック・エルクが9歳のときに見た「おおいなるビジョン」では「赤い杖」1本を大地に突き刺すものだったのに対して、後年彼がゴースト・ダンス(というトランス状態に入るような盆踊りのようなもの)の中で見た「より小さいビジョン」(と年老いたブラック・エルクが振り返って呼んだ)ビジョンでは「赤い杖」と「白い杖」の両方を「必要になるはずだから」と差し出される。

ブラック・エルクはこの「より小さいビジョンだったほう」に従ってしまったことが自分の過ちだった、と後年、悔んでいました。「あの大いなるヴィジョンの教えに頼るべきだったのにそれをせず、より小さなヴィジョンの中で見た二本の杖に頼った。この世界にあっては、とかく大きなヴィジョンの告げる教えに従うのはむずかしい。なにしろこの世界には暗黒がのさばり、多くの不気味な影がうごめいている。このような影の中で、人間は道に踏み迷ってしまうのだ」(P251)。

もう1点、気になっているのは、やっぱり「ビジョンの大きさ」に関わることなんだけれども、それは、9歳の夏の「おおいなるビジョン」の一部分、「四つの坂道」(P49〜)の「第三の坂道」で起きたこと。

おおいなるビジョンでは、「良きオヤテ(ネーション)が聖なる作法にのっとって良き土地を歩む」様子を見る場面があって、その進む道は「四つの坂道」になっています。

ブラック・エルクは「四つの坂道は私が知るべき四つの世代だった」と言っていますが、その第一の坂道では、「土地は、見渡すかぎり緑におおわれていた。年老いた男女が一斉に手を上げ、手のひらを前に向け、遠い空のかなたに向かって手を差し伸べ、穏やかな声で歌をくちずさみはじめた。……第一の坂道の終わりに来ると、われわれは以前と同じように聖なる輪の中に野営を張り、輪の中心に聖なる木を立てた。まわりの土地はまだ見渡すかぎりの緑だった」。

やがて第二の坂道に向かって出発し、前と同じように進んだ。相変わらず緑だったが、傾斜は急になってきた。前方を見ると、人々は、エルクやバッファローなどあらゆる種類の四本脚に姿を変え、中には鳥の姿になったものもいて、いずれも聖なる作法のとおりに良い赤い道を歩いていた。……しかしその坂道の終わりに近づき、そろそろ行進をやめて野営を張ろうかというころから、四本脚たちは落ち着きを失った。自分が以前と違う姿であるのが気になるらしく、不安そうな声を出して首長たちに呼びかけはじめた。坂道の終わりで野営したとき……聖なる木が葉を落としはじめていた」。

やがて人々はふたたび野営を解いた。彼らの前に、黒い道が日の沈む方角へと伸びていた。そこには黒い雲が湧いていた。人々は前へ進みたくなかったが、その場所にとどまることはできなかった。そして彼らが第三の坂道を歩むとき、人間の変身した四本脚や鳥たちはみな、あちらこちらを駆けまわった。それぞれが自分だけの小さなヴィジョンを持ち、それぞれが自分だけの規則に従いはじめたようだった。天地のいたるところで、風の吹きすさぶ音が聞こえた。まるで、野獣たちが争っているような音だった」。ブラック・エルクは1930年代に「いま、われわれはちょうどあの場所の近くにいるように思える。世界じゅうで何かひどく悪いことが起きるような気がする」と言ったそう。

この第三の坂道で、「それぞれが自分だけの小さなヴィジョンを持ち、それぞれが自分だけの規則に従いはじめたようだった」というところが、すごく気になっています。2010年代の今も、やっぱりこの場所にいるんではないのか、と…。

ヴィジョンはこう続きます。
われわれが第三の坂道のてっぺんに着いて野営したとき、オヤテの輪は壊れた。広がって消えていくタバコの煙の輪のようだった。聖なる木はぐったりとして生気を失い、木に宿っていた鳥たちはすっかりいなくなった。

みんながいよいよ第四の坂道をのぼる準備をしていると……彼らはみな元の人間の姿にもどっていたが、体は痩せ細り顔はげっそりとこけていた。彼らは飢えているのだった……。聖なる木はもうどこにもなかった。

でもこのあと、「飢えた野営地の北側に体中を赤く塗った一人の聖なる人が立っているのが見えた。聖なる人は槍を持ったまま、人々の真ん中に歩み入ると、地面に横たわり、ごろごろと転がった。起き上がったとき、彼は一頭のよく肥えたバッファローになっていた。そしてバッファローのいる場所に、聖なる薬草が生えてきた。そこはちょうどオヤテの輪の中心、聖なる木の立っていた場所だった。薬草は見る見るうちに伸びて、一本の茎の先に四つの花を咲かせた。――青、白、緋、そして黄色の花だった。四つの花の放つ四色の光が輝き、まっすぐに天までとどいた。

薬草が伸びて花を咲かせると、人々はみな生気を取り戻し、馬たちは尻尾を立てていななき、跳ねまわった。北の方角からそよ風が吹いてきて、人々の間を亡霊のように通り抜けるのが見えたかと思うと、突然、あの花咲く木がまた立っていた。そこはオヤテの輪の中心、薬草が花を咲かせ、四色の光線を天に投げた場所だった」。

このあと、ブラック・エルクが聖なる力をたたえる歌を歌い、「声」の示すとおりにすると、西のほうに表れた一頭のやせ衰えた馬が、「ひひーんといななき、地面をごろごろと転がった。やがて起き上がった姿を見ると、大きくつややかな種馬になっていた。……彼はすべての馬の長なのだった。鼻をならすと鼻孔から稲妻が走り、目は宵の明星のように輝いていた」。

そして馬のオヤテがあらわれ、その中心でこの長の黒馬が歌を歌います。「このうえもなく美しい声だった。あまりにも美しかったので、あらゆる場所のすべてのものたちが踊りださずにはいられなかった」。

そして人間たちの様子を見ると、「その上を雲が流れ、彼らの上に恵の雨を降らせていた。やがてその雲は東の空に流れて、その上に燃えるような虹が出た」。

馬たちはみな、歌いながら第四の坂道のてっぺんを越え、その向こうのそれぞれの場所へと、もどって行った。すべてのものたちは馬たちの声に合わせて歌いながら歩んでいた。そのとき声が言った。『宇宙のあらゆる場所で、彼らは幸せな一日を過ごした』。見下ろすと、幸せの一日の、大きな広い輪が見えた。その輪は美しく緑色で、いろいろな果実が豊かに実り、すべてのものは優しく幸せだった。また声が言った。『この様子を見なさい。このような暮らしをお前がつくるのだ』」。

ブラック・エルクはおおいなるビジョンの中でこの後、「大地の中心に立って見てみよう」といざなわれ、山々の中でも一番高い峰に立ちます。このとき「私の足もとを取り巻くように、全世界の輪が広がっていた。そこに立って私は、言葉になる以上のものを見、見た以上のものを理解した。私は、聖なる作法に則って、あらゆるものの形を、そのスピリットの姿において見ていたのだ。あらゆるものの形を、それらが一体となって共に生きる、一つの形の中にとらえていたのだ。そしてまた私は、民の聖なる輪がたくさんの輪の中の一つの輪であり、それらのたくさんの輪が、日の光や星の光のように輝くおおきな輪を形づくっているのを見た。その輪の中心には一本の木がたくましく育って花を咲かせ、その木陰に、共通の父母から生まれた、すべての生きものたちが集っているのだった。これらのすべてが聖なるものなのだと私は思った」。

* * *

このヴィジョンを、白人を通して、後世に残したブラック・エルクと、自然とともに生きるインディアンの生き方を、白人の子供(トム・ブラウン)に教え伝えることで後の世に残した、リパン・アパッチ族の古老ストーキング・ウルフ(通称「グランドファーザー」)。迫害した相手である白人に、伝える、ということをした背景にどんなビジョンがあっただろう。おそらく、「民の聖なる輪がたくさんの輪の中の一つ」「すべてが聖なるもの」という境地だったから、できたこと…。

ストーキング・ウルフがトム・ブラウンに教えたのは、1957〜67年。ブラック・エルクが語りだしたのは1930年。

インディアンとしての生き方を貫きながら白人と交友関係を持って、自分のあり方を伝えたのは、ブラック・エルクに先だって、ヤヒ族で最後の一人の生き残りだったイシ(本名は不明)もいました。1911年に白人の屠畜業者の囲いに迷い込んで保護されてから、1916年に亡くなるまでの日々、人類学者のアルフレッド・クローバー、トマス・ウォーターマンらととても友好的な関係を築いたイシ(白人によって自分の身内も一族も目の前で虐殺されているのにもかかわらず)。彼も、そのものすごく柔和で優しく寛大な人柄に、人類学者たちがすっかり打たれてしまったことが記録に残っています。

イシも、意図的ではなかったにせよ、クローバーの妻による伝記『イシ』と、クローバーの娘の作家ル・グウィンの作品を通じて、インディアンのあり方と世界観を西洋世界に伝えました。

20130727_140826この橋渡しが、「その輪は美しく緑色で、いろいろな果実が豊かに実り、すべてのものは優しく幸せだった」といえるような暮らしがこれからやってくるための、助けになってきているように思えています。

そうやって撒かれた種が、世界のいろんなところで芽を出しているようにも感じる。

それぞれの小さなビジョンに立て籠っているところから、輪の思想へ…?

posted by な at 19:40| Comment(0) | ねがいごと