栗の渋皮煮、初めてつくってみた。前に相方のお母さんがつくってくれたのが、おいしかったので。重曹入れて煮ると、濃い色になってびっくり。楽しくつくりました。
この栗は、岐阜への旅のとちゅう、郡上八幡の神社の朝市で売っていた栗を衝動買いしたもの。重たいのにリュックに入れて旅の間しょって歩き、夜行バスで新宿に帰りついた日には、栗入りリュックをしょったまま、また国会前デモへ向かったのでした。。。そんなわけで、わたしとしばし共に歩んでくれた栗であります。
安保関連法案のことでは、国会前に通ったり、国会中継を連日深夜まで見守ったり、ぐっと力を込めて過ごす日々がしばし続きました。改めて、今まで以上に、地に足のついた希望を持って、あきらめずに、ひとりの人間として声をあげていく基礎体力と基礎知力が、自分のまわりのひとたちに、そして自分自身にも、ついたように感じています。目先の結果や報道の内容に一喜一憂するところには、もういないのだなあ、と。
一気にガラリと変わるとかでなく、こうやって少しずつ、経験を経てレベルアップしていくこと、尊いな、と思う。
とはいえ、直後の連休はやっぱり寝不足でヘロヘロになってしまって、すっかりリハビリデイズとなりました。ともだちが会いにきてくれたおかげで、ほぼ毎日海に親しんで過ごした。
遠方から車で来てくれた(み)ちゃんと、浜で待ち合わせをして、お互い遅くなって、同じタイミングで到着。夕日は見逃したけど、明るい三日月を眺めて、波に映る月の道を眺めたところから。。。
翌日はまた夕焼けアワーに、遊びにきてくれた(よ)さんと、(ゆ)ちゃんと浜へ。波打ち際が夕日に金色に光るのを、きれ〜 い!としばし眺めているうちに、(よ)さんが、さささ、と水着に着替えはじめ、あっという間に入水。。。つられてわたしも入ってみたら、海の中のほうが外 より温かいくらい。気持ちよかった。。しかしこの季節にまだ海に入るだなんて、自分史上初でした。。
その翌朝は、「海辺で過ごしたい」という(み)ちゃんと、(ゆ)ちゃんと朝から浜へ。海には入れるかなあどうかなあ、と言いつつ、念の為水着を着て行き、結局また入ってしまった。。波があんまりなくて、ぷかんとあお向けに浮かんで空の雲をながめていると、音も水の中できこえる波音しかしないし、見渡すかぎり空だし、自分の中にわーわーざーざーと続いていたいろんな想いが、しばし、止まった。
海から上がって、太陽と砂のあったかさで体を乾かすために、3人で浜に寝ころんでおやつ食べて過ごして、「お彼岸に海水浴って、人生初だよ!」と笑いころげ。
そのあと1日おいた次の日には、海外から来日中の(ひ)さんと、また夕焼けを見に浜へ。さすがにこの日はもう水には入らなかったけれど。。。富士山がさきっぽだけ見えていて、きれいかったので、砂浜に腰をおろして、素足を砂のお山のなかにうずめていた。風はすずしかったけど、砂の中のほうはあったかだったな。
* * *
特に休まるのは、しばし、自分の中のいろんな想いが止まるときなんだけど、サウナに入ると、やはりそのようになる。
ちょうど1年前、フィンランドに行ってサウナに入ってからというもの、サウナ、しかもロウリュ(水をかけてジュワーと出る蒸気を浴びるサウナ)が大好きになっていたんだけれど、そのあと、タナカカツキさんの「サ道」という本を読んで、初めてサウナと水風呂を行き来することを覚えました。その圧倒的な気持ちよさといったら。。!思考回路に「強制終了」がかかって、自分がまるごと体だけになるような、ただの生きものになるような感じ。
水風呂は静かにそおーっと入るのがコツ。水の中でじっとしていると、皮膚の周辺に「羽衣」ができあがります。それができあがると、もう水は冷たくなくて、ずうっと入っていられそうなくらいになる。これがほんとうに気持ち良いのです。
水風呂のあと、またサウナに入ると、こんどはサウナがさっきよりまた一段と気持ち良くなり……、サウナ→水風呂→サウナを何回も繰り返していると、もう圧倒的な心地よさ。
そういえば、たまたま滞在したピスパラという町にあったフィンランド最古のサウナでは、水風呂がわりに、みんな外の風に当たっていました。風に当たって涼んでは、またサウナに入る、を何度も繰り返していた。老若男女が皆体にタオル一枚まいた姿で庭先にたむろして、おしゃべりしていた図はある意味衝撃的でした。
あのサウナは、薪であたためていたサウナで、電気やガスとはまた違ってやわらかい温かさでした。北鎌倉の常楽湯も、薪で沸かしたお湯がすごくやわらかかったけど、どうして木を燃やした熱であたためると、ああいうやわらかーいあたたかさになるんだろう?
有機物と無機物の違いかな???
木々のこと、知れば知るほど、もっと知りたくなる。
森で木々とただ一緒にいるのももちろんだけれど、こうして薪になってくれた木々のあたたかさを経験したり、切った木からグリーンウッドワークで椅子やスプーンやいろいろをつくらせてもらう体験をしたり、そういうなかでもっと木々のことを知っていけるように最近は感じています。
今回の岐阜行きでは、森の木を切る(間伐する)ことの大切さも、実感したのでした。美並というところで、汗をかきかきレンタサイクルで星宮神社まで走ったのだけど、その地域の、巨大な杉・檜がそびえたつ薄暗い森に、圧倒されました。。。しかも森の神は女性が森に入ることを嫌う、という言い伝えを知ったりもして、すっかり気後れというか、気落ちしてしまったのだけれど、その後、森林アカデミーの裏山で小径木の伐採を体験させてもらって、また全然違う森だなあと体感したのでした。そこの森は、さまざまな樹齢の広葉樹も多い明るい森で、まめに人の手が入っている森。
昨日参加した、湘南海岸林のお手入れボランティアでも、生命力あふれる蔓草たちに敬意を払いつつも、それらがクロマツの木やそのあしもとの広葉樹たちの成長を阻んでしまわないよう、お手入れしていくことが大切なのだと知りました。真っ赤に透き通るかわいい実
をつけた蔓(ヒヨドリジョウゴ)もあったりして、忍びないな、とも感じたけれど。
それにしても、ほんの数時間森に入っただけなのに、海に少し浸かった日と同じくらい全身が心地よくくたびれました。道のついてないもモフモフの森に分け入っていくのは、海に入るのに近いものがあるのかも。
海も、森も、どちらも好きで仕方ありません。。。少しずつ、もっと知り合っていきたいなと思う。
しかし最近ブログを書くと、話が二転三転してしまうな。。。わたしの思考回路がそのようになってきた証拠かな。。さいきんいろんなことがうまく言葉にならない。。