急にぐんと寒くなってきて、「猫の額庭」ではひまわりのタネが飛ぶように売れています、シジュウカラのみなさんに。そして私はよく眠くなるようになってきて……そういえばもすうぐ冬至、と思い出してナットク。
まるで冬眠するみたく、まるまって静かに眠っていたい欲求があること。冬はうちにこもる季節、なんだなあ、と。
それなのに、まちはクリスマスソングであふれてるし、パーティーの季節ってことでなんだかキラキラにぎやかめな気が満ちている気もしたりして、あわわ。
ストーブの前でもくもくと木削りや編み物をするのが、ちょうどいい感じであります。
仕事が忙しかったのがいったん落ち着いた数日前、割れたお盆や壊れた洋服掛けを直してたら、ふと木の笛をつくりたくなりました。こういう欲求はいつも、急にやってくる…。
で、手持ちのケヤキの枝で、さっそくつくってみました。グリーンウッドと言えるかどうかは微妙なケヤキ。今年5月に伐採されたのをうちの軒先で保管しておいたもの。

10センチくらいに切って、中にドリルで空洞を開けて(底は残して)、音が出る穴を表面にドリルで開けて。空洞にしたときのドリル穴の径に合わせて、ラウンダーで粗く丸棒にしたケヤキをナイフで削り、さらにその丸棒の一面を落としてから差し込んで、唄口に。
指孔を開けるのとチューニングはこちらの動画を参考にしました: ロシア語?らしく、言葉はぜんぜんわかりませんが、図と画像がずいぶん参考になりました。(この動画の次に出てくる「How to make a wooden ocarina in the forest」もよいです!)
てきとうに指孔を1つ開けて、音程をチューナーで確認したら、ちょうどCだったので、次の穴を開けてDの音を出して。もひとつ開けてEを。順繰りにチューナーで確認しながら進めてましたが、途中から面倒になって、残りの穴はえいやっといっぺんに開けました。
そしたら、ドレミファまではなんとか鳴るけど、ソラシドはほんのり音階がきこえるけどほぼ空気音、というふうになりました(^^;
どこをどう改良すればいいか知りたくて、笛のつくりや構造をリサーチしている現在です。プロのフルート奏者の方にご意見をきいてみたり。ネットで手づくり笛の作り方をリサーチしたりしているところ。
一音階くらい出るようにして、曲を吹けるようにしたいなーという野望があります。
このプロトタイプ笛は、まだ仕上げはこれから(表面をきれいに削ったりしたいし、歌口に突っ込んだ丸棒を切り落としたいーー丸棒は、改良するときにまた抜いて微調整できるようにしたくて今のとこ残してあります)。
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昨日は、一度お会いしてみたかった長野修平さんに、フォークづくりを教わりに行ってきました。木取りして粗く形にしたものをすでに用意してくださっていて、そこにフォークとしての形を施して整えていくという流れ。
材は、長野さんのおうちの裏山のナラの木とクリの木でした。わたしはナラで。匙面の浅いスプーンを作って、先端に切り込みを入れるとフォークになる、という感じでした。
小学6年の女の子とご一緒できたのが嬉しかったです。みんなそれぞれ味のあるフォークになって、どれもかわいかった!
生活の道具を自分でつくるときには、既製品のようなものを目指すのは違う、と長野さんがおっしゃってたのが心に残りました。
それで思い出したのが、今月初めにうかがった中野のモノ・モノさんで、たまたま手にとった秋岡芳夫さんの著書『工房生活のすすめ』。パラパラとめくっていったら、なんとも心がときめきました。そこで展開されていたのは「裏作工芸」というコンセプト。

仕事としてつくるとなったら決してつくれはしないものを、「裏作工芸」でつくる愉しさが語られていました。時間をかけたいだけかけてつくる、好きなようにつくる、ということ。
これを「趣味」と呼んでしまえばそれだけのことになるけれど、秋岡さんはこれを「裏作工芸」と呼ばれた。表では別の仕事をしている人たちが、自分の生活の一部を自分の好きなように手づくりしようとする、自然な欲求、自然な動き、として。そういうように生きることのれっきとした一部として「裏作工芸」を位置付けている感じがして、妙にうれしかったのでした。
この本は残念ながら絶版でした。古本屋さんで見つけたら買っておかなくちゃ、と思う。。。
中野のモノ・モノへは、いつもお世話になっているグリーンウッドワークの先生、久津輪さんが、今年の夏行ってこられたイギリスのスプーンフェスの報告会をしてくださるので、うれしく聞きに行ったのでした。
お話はとってもすばらしくて、いつものように元気が出てくる内容だったのですが、自分でもふしぎと、モノ・モノの場にそこはかとない怖さを感じていました。何回かおじゃましてるのだけど、実は毎回感じています。
どうも、モノ・モノ自体は、工芸家でない人たちの「裏作工芸」が視野に入っていた秋岡さんゆかりの場なのに、なぜか秋岡さんのバイブスよりも、プロの木工家の皆さんの集い場という感じを、私が強く受けているからみたいでした。
少し立ち話をした男性は、木工に携わっておられる方みたいだったのだけど、スプーンづくりのワークショップをしたら30代の女性たちが、「刃物こわーい」と言ったりして、その場が彼の思うような場にならなかったらしく……。結論として受講者の彼女たちが「結婚もせず、子どもも持たずに30代40代になっちゃった人たち」で「ちょっと体験してみたいだけ」で、「オーガニックとかそういうのに興味があるふわふわした人たち」だからそうなった、と分析されていて。
彼はそのあとワークショップをしたくなくなってしまったようで、ご自身にとって「痛い体験だった」とのことだったので、お話を聞いていて、お気の毒に感じました。が、でも私の心のどこかで、その彼女たちはほんとうに彼が言うような感じなのかな?と疑問は湧きました。
「刃物こわーい」というのは、刃物を普段使ったことがなければ、当然の感覚です。私自身木削りを始めた当初はこわかった。今だって、こわいときがあります。だからこそ身を守るためのナイフグリップを学んで、より安心安全に刃物を使えるようになりたいと思って勉強しています。
その女性たちにしても、初めて握る刃物がこわくても、木削りがしてみたいと思った心の動きはあったわけだし、「刃物は怖くなく使える使い方があるんですよ」と教えてさしあげられたら、いっかいぽっきりの「体験」で終わらない、長く続く木削りの愉しみへとお誘いできたかもしれないんじゃ、と思ってしまいました。
独身のまま30代40代になった女性はこんなもんだ、と思考停止しないでほしかった、という気持ちが私の中にはあったみたい……なんだけど、ただでさえここにいることを場違いに感じていて、自分の感じているところを言葉にできなかった……プロの木工家の皆さんがどこか怖かった、というのが正直なところです。
木削りする人に心根の悪い人はいない、というのがわたしの持論ですけど(実際何をしてる人でも心根の悪い人はいない、とも思いつつ汗)、プロの木工家の皆さんは、もしかして、一昔前に音大に行った音楽家の皆さんのような、なんというか、つらい体験をお持ちなのかな?と想像してしまいました。
学ぶ過程で、とてもがんばらなくてはならなかった、師匠に対して質問をしてはいけないとか、だまって従わなくてはいけないとか、(だまって殴られたりとかも?)そういう厳しいことをくぐりぬける中で精神を鍛えてこられた人たちなのかも、と……。
そういうことを経て現在があるというところからみると、「結婚しないまま、なにかひとつことに打ち込まないまま30代40代になった”ふわふわした”女性たち」が軟弱の極みに見えるような見え方が立ち上ってくるのかな?と。
実際はどんな人も、結婚しようがしまいが、ひとつことに打ち込んだかどうかに関わらず、必ずみんながんばって生きてきて今がある、とわたしは思っています。その人なりの事情があって、その人なりの生きづらさを抱えながら、みんなやってきているんじゃないかと。そこを尊重しないかぎり、人として対等に向き合えないと思うのです。
客観的に見て、積んできた苦労の度合いが明らかに違う、ということはあるだろうけれど、それと主観的な苦労はまた別物……。
スプーンフェス報告会の中で、唯一、私の心がざわついたのは、久津輪さんがスプーンフェスの中で行われた「スプーン削りとメンタルヘルスについて」というディスカッショングループのレポートを始めたときのこと。会場で聞いていた方々のあいだから、ちょっと笑いが起きたときでした。
どういう意味合いの笑いだったのかな、と気になりました。精神を鍛え抜かれて木工を仕事にできるまでになった人にとっては、メンタルヘルスは笑えるコンセプトってことなのかな?と……。久津輪さんはそのまま説明を進めて、「イギリスの普通の成人は精神に問題を抱えてカウンセラーにかかったことがある人は4人に1人なんだそうです。でもスプーンフェスで講師を務めている人たちのあいだでは、この比率が2人に1人なんだそうです」と続けました。笑う話ではなく、ほんとに真面目な取り組みとして、自分たちが木を削ることに助けられてきた、そうした経験を広くシェアしていこうとしている、というお話でした。
私も自分自身、不器用な自分はこんなとこにいちゃいけない、とグリーンウッドワークのワークショップに出るたびに何度となく痛感して、でもその後またむくむくと木削りしたい気持ちが沸き起こってくる、ということを繰り返してきて、自分にとっての木削りは、精神療法の1つだと認識するに至っています。
いろいろ辛さが来てカウンセラーのところに通ってた大学時代、無性に木が削りたくなって建設現場に落ちてた木っ端を拾ってきて、彫刻刀でやみくもに削り出した自分がいたこと、今でもありありと思い出せるのです。
弱さがあるからこそ、木削りに救われるって、ぜんぜん普通にあるだろうと想像できてしまいます。
日本で木削りがブームになりつつあると、聞くことが増えました。そこにプロの木工家の皆さんが関わってくださることはすてきなことだけれど、木削りのこういう側面を笑ったり軽視したりしないでもらえたらいいな、と願っています。私のような人間にとっては、質の高いモノがつくれるかどうかよりも、つくるプロセスそのものにもっともっと大きな意味があるということを、知っていてほしいです……。
いろいろな気持ちがいったりきたりする中で、私はまだ自分が木削りワークショップをできる力量が十分でないけれど、できるようになりたい、と初めて思いました。女性や子どものみんなに、「自分でできることの愉しさ」を通じて力を返す方法として……。