2007年03月13日

イサドラのことば

ブログを書き始めて、少し、時間がたったけれど、ちょっと自分の書いたものを振り返ると、ほんとに、自分にとって、とってもだいじだー、と思ってることについては、ほとんど書けていないのでした。

これはどういうことだろうか、と思う。

やっぱり、だいじなことは、だいじだいじに、しておきたいのかな。

よほどのことがないかぎり、ぽっと外へは持ってでないのだ、みたいな。。。

尊敬している、むかしの、ダンサーである、イサドラ・ダンカンの「The Art of the Dance」(1928)という本があります。その本を、実に久しぶりに、おととい開いたとき、その開いたページには、こんなことが書いてありました。

私たちはいつも発作的な状態にいる。角ばった歩き方をして、常に、2つの地点の間で一定のバランスを維持しようとやっきになっている。下降することの憩いを知らず、息をしてまた上がり、さっとかすめて、再度、翼を休めにくる鳥のように元の場に戻ってくることの、心地よさを知らない。鳥は、もがいたりはしない。

暴力的衝動も、抑えているほうが大きくなる。慎ましさの中でゆっくりと育まれていく1つの身振りは、もがきながら途切れ途切れに為される、幾多の身振りに価するのだ。

posted by な at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 踊り

2007年01月28日

ひとつのことを、ずーっとやり続けるのって

翻訳の仕事をしていると、(たぶんわたしにとっては)人の言葉を自分のからだの中に通して、その思いになりきるようなプロセスがあるので、ときに疲れます。

たくさんの量の仕事があって締め切りが近いとき、食事もそっちのけで禁欲的に仕事にのぞむ、というのが、わたしのデフォルトパターンなのだけれど、最近は、忙しいときに限って、ながながとブログを書いたりしています。

人の言葉でいっぱいになったからだをいったんリセットするような、薄まっていた自分の濃度を、自分の思いを言葉にすることで上げていくような感じで、仕事のストレスを解消できるみたいです。それで、その後は、仕事もはかどります。

それと、単純に、ひとつのことを、ずーっとやり続けないほうが、ほどよく力が抜ける、みたいなことを発見中。。。

昔は、なにかひとつのことを極める、というのに憧れていたんだけれど、近年は、そのなんというか、玄人気質というか、求道精神というか、そういうものが、きゅうくつに感じられています。

なにかのプロになること、切磋琢磨して身につけること、精進することの副産物として、厳密さや正確さ、果てはその道の真髄みたいなコンセプトを大事にするようになっていって、気をつけないとその観点の副産物として、競争や排他主義が生まれちゃう。。。そんな流れが、ありそうで、気がかりです。

正確さを求める衝動が強いわたしです。。。ひとつことに専念するのも、突っ込んだ探求もだいすき。でもやっぱり疲れるなー、というのも正直なところで、そういうときにどこへ向かうかというと、音楽や手仕事や温泉。心の底から「快さ」があふれ出てくるものへ。。。

昨夜は、探求モードでがんじがらめだったわたしを、パートナーがアフリカンダンスへ誘ってくれて、そこで生ドラムのビートに合わせて汗びっしょりになって踊ったら、とってもすっきりしました。

アフリカンダンスって、みんなで地をおまつりするダンスに思えました。バレエは天をまつり、アフリカンは地をまつる、みたいな? かたや日本の盆踊りは、またなにか別の境地。。。

夏、おじさんがやぐらにひとりでのぼって、たいこをゆっくりたたきながら、念仏のような唄をうたうまわりで踊る、佃島の盆踊りがすきです。そこの土地の住人ではないのに、おじゃまして、一緒に踊らせてもらっています。無縁仏のために踊る盆踊りです。

盆踊りは、プロの踊り手(それを仕事として食べていこうという人)やその道の専門家や研究家が発生しにくい踊りですね(わたしが知らないだけで、やっぱりそういう玄人さんはいるのかな?)。なにかを極めるというよりかは、とにかくみんなで一緒に踊ることがポイントで。

輪になってみんなで、シンプルな身動きをえんえんと繰り返して踊っていると、自分が世界とそろうような感覚になる瞬間があります。

posted by な at 14:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 踊り

2006年11月14日

ニジンスキーの「牧神の午後」

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今日、図書館でなんとなく手にとった「愚者の機械学」という本に、ニジンスキーについての章がありました。ヴァーツラフ・ニジンスキー。1889年にキエフに生まれて、20世紀はじめのヨーロッパでバレエ・リュスのダンサーとして一世を風靡したのち、精神を病んで孤独な晩年を送った人です。

5,6年前の秋、友人と古本屋をのぞいていたときに、急に彼女から「ヘンなワークショップがあるんだけど、行かない?」と切り出されたことがありました。聞けば、ニジンスキーの振付作品「牧神の午後」を、舞踊譜から復元して実際に踊ってみる、というワークショップとのこと。

彼女は元バレエダンサーで、舞踊譜の研究者が集う会にも出入りしていたようで、その筋で企画されたワークショップだったようでした。会場はある大学の一室で、入場は無料、予約も不要。講師は、ニジンスキーが独自の方法で譜に残した「牧神の午後」を研究・復元した舞踊研究者のJeschke教授。

ちょっと場違いな気がしつつも、わたしは、そのワークショップに行って、復元された「牧神の午後」の振り付けを、自分のからだでたどっていきました。

驚いたのは、動かずにじっとしている時間がとてもとても長かったこと。そして全体を通して、ニジンスキーが演じた「牧神」役は、たった1度、ほんの短くしか跳躍しなかったこと。

超人的な跳躍力とオールラウンドな身体能力の高さで絶賛されたニジンスキーが、自分で作品を振り付けるにあたっては、こんなにも「跳ばない・動かない」ことを選んだのには、とても興味をそそられました。

あまり動かず、立体の人間をわざと平面に押しとどめるかのような振り付けでしたが、これがドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の調べと合わさると、じっとしている時間が「ただ立っている」とか「ただ座っている」というのでは到底なく、時とともにどんどん濃密になる、ものすごい身の充実感を伴うことが、わかりました。

ワークショップでは、舞踊譜から起こしたのではなく、記憶をもとに踊り継がれてきたバージョンの「牧神の午後」のビデオも見せてもらいました。そこでは、舞踊譜上は「じっとしていてなにもしない」ことになっているところで、大きなアクションが加えられていました(たとえば、一房のぶどうを手にしてじっとしている場面で、そのぶどうを高くかかげて下からかぶりつくようなジェスチャーが入る、など)。

人の記憶というのは、「なにもなかった」ところを「なにもなかった」ままにはしにくいのかな、「なにかあったはず」と考えてなにかで埋めようとしてしまうのかな、と思ったりしました。

あるいは、あの「牧神の午後」はすでに、当時のバレエの概念をあまりに突き破っていたために、ありのままの形で後のバレエダンサーに受け継がれることがなかったのかも。。。

動かない舞踊。跳ばない舞踊。物質レベルの身体をはみだしていかざるを得ない舞踊。

「牧神の午後」は、バレエとモダンダンスを経て、その後何十年もしてからユックリ出てくる日本の暗黒舞踏を、先取りしていたような気が、どうしても、します。

posted by な at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 踊り