2008年01月27日

冥王星の山羊座入りの日

Keisodo踊りを封印していたのかもしれない、と思いました。

生きていく中で、踊りにたいへん助けられていた時期があって、でもいろいろな事情で離れていっていました。

それというのも、だんだん、踊れなくなったのでした。体は動かせたのだけれど。体を動かしていても、踊っていない自分がわかってしまう、というような。。。

昨日、『珪藻土礼賛〜植物プランクトンの生気から』という展覧会に行きました。立体造形作家・伊藤公象さんと作曲家・藤枝守さんのコラボレーション。最終日のワークショップに参加しました。

ワークショップのなかで、800度くらいの温度で焼き固められた珪藻土の塊に水を含ませて、そのときに立ち上る音に耳を傾ける、というのをやりました。

とても小さな音。湿らせた珪藻土の塊を、両耳に押し当てると、実にいろんな音が、いろんなリズムで聞こえてきました。土の内部の微細な孔に、水が入り込んで、そこに含まれていた空気を押し出すときの音。土が内部に抱えていた空気を吐くときの、マイクロサイズの息づかい。

珪藻土というのは、多孔質なのが特徴です。見かけはソリッドなのに、中と外との境界線がスカスカ。。。がっちり閉じられていないので、空気や水が出入りできます。

Keisodoworkshop人間の肺もそれに似ている、と藤枝さん。たしかに、たくさんの気泡を抱えられる仕組みになっていて、中と外との換気が起こる場所です。空気や水の出入り、ということでうと、皮膚全体もそう。。

ワークショップの「聴く」というセクションをリードしていた藤枝さんは、最後、会場内の照明も全部落として、「自分も珪藻土になったつもりで、中から出てくる音を、出してみましょう」とサジェストされました。

じっと耳を傾けていると、わたしの中からは、音のかわりに動きが出てきました。表面ではなく、内の奥のほうから、出てくるような動き。

それはそれは、ひさしぶりに、動きの中に自分を深く埋没させた瞬間でした。

わたしが体を動かすのでなくて、動きとわたしが同期をとるときは、独特の有機的な感じがあって。プロセスワークでいう「二次プロセス」をとおして「big U(You)」にアクセスするときの感じに似ています。

意識の地平の向こうに周縁化していたものを、思い出していく瞬間というか。

posted by な at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 踊り

2007年07月01日

空白に身をゆだねること

川べりをずーーーーーっと歩きました。日が暮れるまで。

ただのなんにもない川べりなんだけれども。。。歩き疲れて、夕方、知らない街の市バスに乗って、車の揺れに身をまかせて眠りました。

そうやって過ごした日、機嫌がすごくよくなっているのに気づきました。「あ、こういうことがやりたったんだな」と思いました。ふたりでえんえんと草の繁る川べりを歩いたりして、行き当たりばったりの小さな旅をすること。

自分にとっての幸せがここらへんにあったんだ、と気づいて、ちょっと意外だったのでした。

くるりの、アルバム「ワルツを踊れ」を聴いています。すごくいいなー。ニャッキーさんのドラム、すきです。やっぱり広さを感じる。

あー、こういう感じでダンサブルっていうのは、、、と思っていて。これは、このあいだのキセルのライヴでも、意外な体験だったんだけれども、なんだろう、拍とは違うところで踊っていて。今までとは違うものに身をゆだねている感覚。

個人天体(水星とか金星)じゃなくて、トランスサタニアンの天体にチューニングしてるような感じ、というか?

今回のくるりのアルバム、わが家のねこにも好評です。結構な音量でかけても逃げないし、スピーカーのよこですやすや寝ている。。。

今日は、昼下がり、ベランダのよしずが、木陰みたいに、部屋の中に涼しい日陰を作っていて、気持ちよい風が吹いて、ぼーっとしていたらいつのまにか眠っていました。時間が止まったようで幸せでした。

階下に昨日引っ越してきた家族の、小さい男の子の声が聞こえてきて、目を覚ましました。

*  *  *

義理の兄からもらった、古いレコードプレーヤーを、アンプにつなぎました。レコードが回り出してから、針が盤の上にぐーんと動いていって、ふっつりと降りていく、この瞬間は、独特の気持ちになります。懐かしいのと、ちょっとわくわくするのと。

それで、レコードをしばらく聴いたあとCDを聴くと、こころもち、「四角い」印象があるのがおもしろいです。レコードの音っていうのは、どこか丸みがあるような。。。

ちょっと小耳にはさんだことがあるのが、レコードには、CDの場合完全に欠落する20KHz以上の高い周波数の部分(人間の耳には「音」として認識できない域)がたくさん含まれている、とか。それはもとからレコードに録音されているというよりは、再生の過程で発生するノイズがアンプで増幅されたり、といった要素らしいのだけれども。いずれにしても、その「混りじけ」があるのが、よいみたい。

薬草の薬効成分をつきとめて、その成分で構成した薬よりも、薬効が認められない成分も含んだ「混じりけ」のある状態の薬草のままのほうが、なぜか効き目がよい、と製薬会社に勤めていた父から、昔、聞いたことがあるけれど。

「音」として認識されない域、なにも聞こえないように感じられる部分って、音楽を担っている大事なところ。。。なのだな。

posted by な at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 踊り

2007年04月06日

「そういうことじゃないんじゃないか感」

ここのところ、カンヅメで仕事をすることが続いたせいか、すっかり足腰が弱ってしまいました。思えば、1日中家にいるので、家の中を数歩歩くくらいしかしていないのでした。昨日、ひさびさに遠出をしたら、かばんを持って半日過ごしただけで、今日は右肩が筋肉痛です。。。ああどうしよう。

あいからわず体調も不安定。みぞおちの奥にぽっかり穴があいている感覚です。そしてちょっとした気候の変化が、ずいぶん大きく体にこたえます。

こんなに体が弱った感覚を持ったのは、たぶん、生まれて初めて。今までは、なにがあろうと、(悩んで悩んで死にたくなっていても)、体だけはピンピンしていて、頑丈だったのです。

なにか大幅な変化が起きているのは、わかるのだけれど、変動がありすぎてちょっとあわあわしています。ただ、もしかすると、これは、環境に対して体が開いてきた、ということでもあるのかな、とも思います。閉ざした状態で良好に維持する、というのは、鎖国したまま安定を保つようなものかもしれない、とか。。。

でも、こんな体調なのに、このところ、またダンスに戻ってみたい気がし始めている自分が、うーむ、信じられません。。。とうてい無理だよなー、という気持ちもあります。

なのだけれど、昨日、大野一雄さんのドキュメント映画「ひとりごとのように」を見に行って、なにか、漠然と、「そういうことじゃないんじゃないか感」を抱きました。

この映画、大野さんが95歳のとき(2001年)のドキュメントです(現在は100歳)。大野さんは2000年に公演で腰を壊してしまわれて、以来、ひとりで立って踊ることはなくなりました。椅子に座って、とか、床に座ったりつっぷしたり、とか、息子の慶人さんに腰を支えてもらって立って、とか、そんなふうにして踊ります。

映画のワンシーンで、「もう踊らなくてもいい、と言われた。もういいですよ、どうぞ家へ帰ってください、と。それはなぜなのか、私は知りたい。私は踊るために、山を登ってここ来た。私は、踊りたい。なのに、踊らなくていい、と言う。それはなぜなんだ? こうやって(腰を)支えてもらっているからなのか?」と、言葉にも支障が出始めていた大野さんが、ずいぶんハッキリと、言うところがありました。

腰を支えてもらって立ち上がったときの、大野さんの一瞬の身振りに、圧倒された瞬間がありました。

あきらかに、体の輪郭からはみだして、はちきれる、なにかがありました。自己完結からはほど遠くて、それはなにか、自分というものの比率がとても小さいからのように見えました。自分というものが、ダイヤモンドのように硬くしっかりとそこに確かにあるのだけれど、その大きさは、比率としてとっても小さい、なぜかそんなふうに、感じられました。

■ドキュメンタリー映画「大野一雄 ひとりごとのように」(2005年)
ポレポレ東中野で公開中。くわしくは↓
http://www.queststation.com/oono/

posted by な at 11:43| Comment(3) | TrackBack(0) | 踊り