ここ数日の、はっとしたこと。
ワークショップで初めて会う参加者に対して、自己紹介をした(き)先生のこと。となりで通訳として彼女の言葉を訳していた私は、今話されていることはなんについてだったのか、一瞬わかならくなるような、混乱状態を体験しました。
というのも、おそらく、こんなふうに自己紹介をする人は、今までの通訳人生で初めてだったからだと思われます。
気負いのようなものが、微塵もない、自己紹介でした。内容的にはちゃんと自分のことを紹介しているのだけれど、伝え方としては、「このあいだ、あそこの公園のどんぐりの木の下で、あおいどんぐりを見つけたんですね、それで。。。」とかなんとか言ってるような、そういう感じでした。
つまり、多くの人が自分について話すときに特有の、余計なテンションが一切不在だったようです。
彼女にとっては、自分自身と、公園のどんぐりとが、おそらく話のトピックとしては等価なんだろうな、と思いました。大事なのは、ここにいる人たちとコミュニケートすることで。
こういう、ポジティブな負荷も、ネガティブな負荷もかかっていない言葉の発し方に、最近、とっても興味があります。
ふだんのわたしのコミュニケーションスタイルは、情感にまみれすぎているように感じられる。気持ちを伝えたくて伝えたくて、実際の気持ちのサイズを上回る、ちょっとおおげさな表現になってしまったり、逆になんにも言えなくなったり。。
もっとクリーンなコミュニケーションをしたいと思うようになりました。
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あと、コミュニケーションの一番根っこのところのこと。
言葉を交わしあう以前の、「一緒にいる」というところについて、今回、(き)先生からヒントをもらって、気づいたことがありました。
わたしは言葉を交わす以前に、「一緒にいる」ことを拒否していた感があります。そこを拒否しつつ、でも言葉だけはやりとりしようとして、相手との間に言葉でほそーい橋をかけようとしていました。相反することをやろうとしていて、なおさら労力使ってた。。。
というのも、自分が「ここに、この人たちと一緒にいていいのかどうか」が、わからなかったからだと思います。
(き)先生から教わったのは、自分がここにいる人たちと一緒にいるあいだ、ここにいる人たちに「私と一緒にいませんか」とお誘いする、というスタンス。いてもいいと思ってもらえるのかどうかは、わからない、でも、今実際に一緒にいるこのひとときは一緒にいませんか、とお誘いするわけです。
誘いに応えてくれるかどうかは相手次第です。お願いしたり命令したりするわけではなくて、お誘いなので、あくまでチョイスは相手にあります。だからこそ、こちらとしては、誘ってみるだけなら別にかわまない、ということなのですね。
で、たとえばパーティーに誰かをお誘いしても、誘った人が来ない場合、たいていは、なにか別の用事があるとか、そういう「私」とは直接関係のないことが理由だったりします。この場合もそれと同じだからね、と言われました。
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後で、この「お誘いする」というのは、人じゃない存在にも通用しますか、と聞いてみたら、イエスと言われました。
それで今日、ずーっと長いこと道を歩いていて、道のまわりの木々や標識やカラスに、私は今あなたがたと一緒にいるので、あなたがたも私と一緒にいませんか、とお誘いしてみていました。
こうやって言葉にするとへんてこだけれど。。
でも、この実験でわかったのは、ふだんのわたしは、まわりの世界を拒否しながらそこにいたようだな、ということでした。拒否して、まわりから切り離された「自分」というものの中に閉じこまっている。もしくは、まわりを拒否しない場合は、まわりに圧倒されて、自分がなくなってしまうかのようになるか。そのどちらか、みたいな感じでした。
この「お誘い」をすると、拒否したり圧倒されたりするかわりに、まるごと事実を認められるような感じです。いつもよりちゃんと、無理なく、今いる場所にいる、という感覚がやってきました。自分もあって、まわりもあって。
一緒にいる。。