このところ、なにかを見ないようにしている、というか避けているような感覚、がありました。
なんだろう、なにを見ないようにしてるんだろう、と思ってすこしじっとしていたら、どうやら<さみしさ>みたいなものだったことがわかってきました。
珍しく仕事がお休みになった年末年始。寒さ深まるこの時期、ほんとなら、ストーブをつけた部屋の中で、音楽を聴いて、のんびり手仕事をする時間が一番すきなはずなのに、どうしてもそういうことができずに、すぐ外へ出かけてカフェとかで本を読んだりして過ごそうとしていて、
しかもカフェでものんびりゆったり本を読む、とかでなしに、なにか、逃避行中の一時避難所みたいにそこにいて、落ち着かない。。。
家でゆっくりするのがあんなにすきだったのは、やっぱりそこににゃみちゃんがいたからだったんだと、改めて気づきました。見ないようにしていたのは、その事実らしい。。
今は、家でゆっくりすると、にゃみちゃんの不在が際立つので、そういう時間から逃げようとしてしまうみたいです。
お腹にさしこむような痛みが続いたり、夜うまく眠れなかったり、今までなかったような体調の変化もあったりのこの頃で。
主観的な気分はのんきに楽しく元気にしてるのだけど、その影で、見ないように追いやっていた気持ちが、そろそろ「ここにいますよー」と主張を始めたのかも。。
今夜はひさしぶりに、大好きだったゴマサバを焼いて、にゃみちゃんとわけっこしました。
* * *
昨夜近所のカフェへ、今年初ライヴにでかけました。Sachikoさんのライヴ。
はじめてちゃんときく彼女のうた声は、ものすごく胴体全体の中にじんわりとしみこんで、広がっていって。。寒いときに飲む熱い紅茶みたいでした。
こんなにいいと知らなかったので、びっくりした。。。寒い冬の日によくなじむ声だなぁと思いました。
ずいぶんお会いしてなかったのに覚えていてくださって、マイクの向こうから、手をふってくださってうれしかった。。
しかし、いいライヴに行ってしまうと、音楽なしでもふつうに生きていけるんですよ、大丈夫ですよ、というつもりになっている日常に戻りにくくなってしまって困るな、とちょっと思った。
音楽についても、どうやら、「にゃみちゃんなしでも(にゃみちゃんのスピリット以外のとこと一緒でなくても)ふつうに生きていけるんですよ、大丈夫ですよ」というつもりになって暮らそうとしてるのと同じ、強がり感みたいなのがある。。
なしでも大丈夫、ふつうに生きていける、というふうでないといけない、と思っている自分がいるもよう。でもこうして書いてみると、なんでそんなふうに思うんだ?って思う。。。
普通の人は痛みとか空虚感を見て見ない振りをして適当に紛らわしちゃうんじゃないかな、と。<br />
でも、ブログを拝見していて、ふうわりさんは本当に愛されているなぁと思います。<br />
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適当に紛らわせられたら、それも軽やかでいいなぁと思うんですけれど、自分は冬季鬱傾向持ちなので、(この季節は特に)向き合っとかないとやばくなる、と年月とともに学んできたところがあります。。</p>
<p>愛されてる、ということって。。ちゃんと言葉で聞かされるのが必要なとき、ありそうで、それが今だったのかな、とコメント拝見して思いました。感謝です。</p>