最近なんだか時間が足りないなあ、という感覚がある。もしくは体力か。。? たっぷりと、やすらげる時間、というのがなかなか手元にやってこない感じがあって、少しやさぐれています。海を見ていたら、あの水平線の向こうの大海原に漕ぎ出していきたい、というむちゃくちゃな夢想がまた始まったり。。。
庭のジャスミンは毎日せっせと新しい花を咲かせているし、秋の光はぴかりと明るくて、風もさわやかなのにな。。なにか、時間泥棒にでもあったようなふうです。おちつけ、自分。。。
先週末は、ひさしぶりのお仕事でかなり消耗してしまったこともあって、リカバリーに時間がかかっています。。。こういうときは楽しいことをしないといけない、と翌朝は起きてすぐ、保管していた桜の枝のストックをひとつ、半割にして、(パジャマのまま)削りだしました。
それでスプーンをまた削ったのだけど、今回は、心身のリカバリー目的だったので、だれかあげたい人を思い描かずに、ただ削っていて。そしたら最近お勉強したスプーンのあれこれ(木取りの工夫やら、どこに強度がいるか、やら)をできるだけ考えてやってみよう、という気持ちになってきて。そこに没頭していっちゃった。
勉強になったのは良かった気もするけど、当の桜の枝には悪いことをしたな、というのが残っちゃった。。それがはっきり自覚できたのは、その晩こんな夢をみたから。
背の低い毛深い男性(のおそらく死体)を、自分の前に横たえて、わたしはナイフでその人の皮膚から毛を削いでいた。すごく事務的に、ニュートラルな気持ちで、そうするのが当たり前なように。ほかの動物みたいに毛深かった。きれいに削ぎ終わったら、解体する、という次の作業に入るはずなのだった。けど、そこで我に帰って、どうしても頭を落とすのはできないな、と夢の中で思って、毛を削ぐまでで手を止めた。削いだ毛を入れていたビニール袋には、フィンランドで買ったプーッコナイフが入っていた(このナイフは現実の世界では、1月くらい前に、かごの材料にと蔓植物を切って以来なぜか行方不明になっているもの)。
目覚めて、平然とヒトの死体を解体(しかもごく普通に、「自分の生活のために」という感じで)するだなんて!と思ったけれど、ああ、そうか、あの毛を削いでいってたときの質感って、昨日、半割にした桜の枝の樹皮をナイフで削いでいった、あれと同じだ、と気づきました。(それにプーッコを失くす直前に蔓植物を切っていたときの感じとも同じ気もする。。)
桜の枝の、蔓植物の、そもそものbeingのことを、想うことなく、事務的にモノとして対処していた自分がはっきりわかりました。スプーンという機能的なデザインのモノをつくる、というほうに意識が傾くと、かごという有用な道具をつくる、というほうに意識が傾くと、なにかこういう反動が奥深くからやってくるみたい。
植物をいただいてものづくりをする初期動機を、毎回、問い直されるような。。?
左側のが今回のスプーン。右のはそのひとつ前に、ともだちの子どもさんのために、と思ってつくった子ども用スプーン。
その前につくっていた2本(子ども用スプーンとコーヒースクープ)はもう旅立っていきました。できばえは納得いってないのだけれど、その人たちのことを考えながらつくったのだし、思い出の岐阜のコシアブラだしで。
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いろんなことが、自分には難しいや。。。それで今夜はなんだか無意味にネットサーフィンなんかをしていて、そしたら薪と炭で吹きガラスをやっている人のブログと出会った。
この方がロケットストーブに興味を持った、というのが自分と共通していたことがあるのだけど、そこから薪と炭で吹きガラスをやることになっていった過程も興味深かった。そして、最後のほうに読むに至ったこの投稿が、また興味深かったな。「吹きガラス作家は本当に食べていけるのですか? 」というタイトルの投稿。
ガンジーが言っていたという、「自分が世界によって変えられてしまわないために」行動する、ということを、思い出したりもしました。
少し前だけど、カヤトと呼ばれる、山の中でカヤがわーっとしげっている場所を歩きたくてハイキングに行きました。相方いわく、昔は春のお花見と同じくらい、秋はカヤの鑑賞がさかんだったとか。。それでぱっと想い付きで、ふたりともの休日が重なった日にでかけて、誰も来ないカヤトできのこスープをつくって、山のふもとの古いパン屋さんの「なま酵母」のバターロール(おかみさんには「天然酵母」という言葉はなじみがないらしかった)をおともに、遅いランチを食べた。
ああいうふうに過ごしているときも、ほんとうに、「変えられてしまわないため」というか、自分の中のなにかを守っている感じがある。カヤトとつながることが、そのための具体策、というような。
ほかの生きものやbeingsとのseparation sicknessをなんとか乗り越えていきたいんだなあ。。