2017年10月14日

流れ星が

Img_2436 さじフェスから帰ってきて、2日ほど、ほけーっとしていました。

5月のアレクサンダーテクニークの合宿の後、しばらく使い物にならなくなった自分も思い出してしまって、さじフェスが終わってすぐ次のことができる相方や知り合いのみなさんにくらべて、自分はなんでこうなっちゃうんだ、と情けない気持ちに苛まれてました。

5月のときは120人ほど、今回は50人ほどの場だったけども、大人数が集まる場所への苦手感は自覚してたので、なるべく疲れ果ててしまないように、意識的に休むことを考えつつ過ごしたつもりでした。それでもやっぱり今回も、いっぱいいっぱいになってしまった。

最終日の夜、相方と二人きりになって電車に乗っていたら、グリーンウッドワーク関連イベントの帰り道にいつもやってくる、自分の不器用さ・作業の遅さについての悲しみが、また、どどーっとやってきました。

それに打ちのめされつつ、長良川鉄道の駅のホームがそのまま入口になってる温泉に入りにいきました。

露天風呂の湯船につかってぼうっと、ものづくりのいろんなスタンスについて考えて、木工家や職人とはまた違うものづくりのスタンスもあることを思い出してたら、スーッと、流れ星が、天頂からななめ45度くらいまで、長い尾を引いて流れていきました。

びっくりした。と、同時に、初めてグリーンウッドワークでのものづくりを教わった、マイクさんの森での日々でも、最終日の夜、、森の縁にある広い原っぱでに出て、ひとりで夜空を見上げてたときに、流れ星がひとつ流れたこと、思い出しました。

あの時も、今回も、不器用な自分に場違い感を感じてたけど、星が流れた瞬間に思ってた、「まずはやってみる」「自分なりに工夫していく」「とにかくやり続けていく」というスタンスの人からはやっぱり元気をもらえるなあと思いました。

もちろん、木工のように刃物などの道具を使う手仕事だと、道具の使い方はやっぱりちゃんと教わることが大事だと今回もしみじみ体感しました。体をどう使って刃物を支えるか、材を支えるか、どう刃物を使いこなすかによって、まるで世界が違ってくるんだなあ、と。。。

だからちゃんと教わって習うことの意味はある。。のだけど、なんというか、それと職人魂とは、別物だと感じていて、職人魂に触れると、なぜか自分はものづくりにかかわっていてはいけないような気分になるのが、興味深い。。

「いいものをつくれる」技術がないと、つくる資格がないかのような気分、というか。。。

開き直って、しろうと魂で好き勝手にやっていこう、と思うのだけれども。というか、わたしにできるのは所詮それしかなくて、なのでこのブログでグリーンウッドワークについてこれまでもいくつか書いてるけど、「読まれる方は、これはわたしの好き勝手バージョンの手探りのグリーンウッドワークであることを、踏まえておいてほしいです」とわざわざ明記したくなるのだけれど。

Img_2433 でもそもそも、グリーンウッドワークはスウェーデンのslöjdのように生活道具を身の回りの森の恵みで自分でつくる、そういうたしなみのような、万人に開かれた営みだと思ってきていて、だから別に職人さんのようになれないからといって、職人さんを目指せないからといって、やってちゃいけないわけじゃないね、と思ってもいて。

なのにこの「場違い感」や「人並みにできないことの悲しみ」に毎回こんなにゆすぶられるのはなんなんだーと思いつつ、デンマークの心理療法士の方が書いたHSPと呼ばれる資質の人々についての本を読んでいたら、そういう人が「過度に刺激を受けたときにするお勧めの活動」のリストの中に「彫刻を彫る」という項目があって、目にしたとたんにどっと涙があふれてきました。

そうか、なんだかしらないけど木削りをしたくてしょうがないのは、そういう理由だったのか。。?と気付かされた。

自分が大勢の人の中にいるとき、いろんな物音や気配の渦中にいるとき、時間的に焦って作業をしているときに、おもいのほか憔悴しているらしいこと。。木削りや手仕事は、自分にとっては、コーピングの手段だったらしいこと。。。

たすけてもらってきたのだったかー、木削りには。

知らない街に引っ越して大学の寮に入ったばかりのとき、なじめなくて、中華街で衝動的に彫刻刀を買って、近くの工事現場に落ちてた木端を拾ってきて、夜な夜なわけのわからないオブジェを削っていた自分を思い返すと、まさにそうだったのかもしれなかった。。。

ただ木を削る、それがやりたかっただけだった?その言い訳として、生活に役立つものをつくろうとしてきた?

ただ海に入って浮かんでいたくて、その言い訳としてサーフィンをやろうとしたみたいに?

ただ木に登りたくて、その言い訳として、高枝の剪定をするときみたいに?

言い訳がなんで必要なんだ、と思うけど、意味のあること・意義のあること・生産的なことをしてないといけない、と思ってるんですね。大人として、日常の時間を割くならば、そうでないと、と。

ふと、先日たずねた鹿児島のしょうぶ学園(知的しょうがいのある方たちの支援施設)で、木工をしている利用者の方々のこと、思い出しました。鑿と材を渡して、お皿を彫ってもらおうとすると、どんどんどんどん彫り進めて底に穴があいてしまうまで止まらなかったりする、そして穴があくとご本人はうれしそうにしていたりする、と聞きました。

一心に彫り進める、その活動に「快」がある。。活動そのものに意味があって、結果としてお皿が完成するかどうかは、活動そのものにくらべたら二次的なことだという境地。。

そして、こういうものづくりのベクトルもあってよいこと、こうやっていくなかで結果としてできあがった「なにか」は、また別の意味で「いいもの」になる、工夫次第で「すごくすてきなもの」になることを、しょうぶ学園の活動からはびしびし感じます。

思い出すと、元気が出てくる。ありがとうの気持ちです。

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posted by な at 21:14| Comment(0) | ひと であること
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